按察

按察
prev

95

 洞窟内の部屋であっても、なぜか、時折、こんなに強い風がと思うような風が、可須水を驚かした。いや、実際にはそれほど強い風ではないのだろうが、洞窟内には風が吹くはずはないと思い込んでいるため、そう感じるのであろう。
 可須水は、迷わず返事をしたものの、内心では、ほんとうにそれでよかったのかと、思わずにはいられなかった。尼は、近江派が二つの系統によって運営されるのは、あくまでも内部的な事情のためであって、表向きは、今後もずっと一つであると説明した。ずいぶん持って回った言い方であるが、要するに、これは、内部分裂である。あるいは、内部抗争である。つまり、破局にもっとも近い状況に陥っているということである。どうして、急にそのような状況になったのか? もちろん、尼が言うとおり、越前での騒乱が火種になったのは、間違いない。百済王族と大納言とのあいだに、なにか行き違いがあったのだろう。しかし、大納言や近江掾、つまり、中央からその土地の支配層として派遣された官僚と、遠い昔に支配層として君臨し、そのままその土地の支配層として強固な地盤を形成した百済王族が、最近うまくいっていないのだとは、情報収集に余念のない可須水でさえ、寝耳に水であったのだ。それは、まさに急転直下の事態であった。
 高度な知識や技術を持って、日本に土着した渡来人というものは、決してあなどってはならない。稲作農耕を普及させたのも、鉄器を普及させたのも、みな彼らであった。普及させただけでなく、彼らが土着した土地は、他地域を圧倒する生産性を発揮して、先進的な共同体を形成した。古来、都が作られた場所は、たいがいそうした集落を基盤とした。京都もそうである。秦氏が開拓した良好な土地に、いわば誘致されて建設された都なのである。
 秦氏も、百済からの渡来人が土着した氏族だと言われている。そういう意味では、近江と京都は、似ていなくもない。しかし、近江が都になったのは、ほんの一時期だけであり、あまりにも長く平安京が続いているため、今ではすっかり、田舎であるという固定観念すら持たれるようになってしまったのである。それは、近江からすれば、実に不愉快なことである。古くから由緒正しい近江の地が、新興の土地にしのがれ、今や圧倒されつつある。この機会に都を取り戻さなければ、いつまでも成り上がり者たちに、大きな顔をされ続けるのだ。
 可須水は、百済王族の出ではないが、近江で生まれ育ったから、百済王族の気持ちはよく知っていた。百済王族は、いつか機会があれば、都を取り戻したいと思っている。これまでは、頼みの綱は、中央政府からやってきた大納言だった。大納言は、娘を二宮に嫁がせることが、ほぼ確定している。病気の皇太子の代わりに二宮を皇太子にすることもほぼ確定しているというのが、世間のもっぱらの評判である。ほんとうに、その通りになって、二宮が帝位につき、大納言の娘が皇子を産めば、大納言が摂関の地位に就くことは、ほぼ確実であろう。こうなれば、これまでの遷都でもあったことだが、狩りをするなどといった名目で、大納言がしかるべき公卿を近江に派遣し、新都の青写真を作成させ、それと同時に、平安京の改修工事という名目で、老朽化した政府施設を取り壊していく。そして、取り壊した跡地に、新施設の建築工事を始める直前に、新近江京遷都を決定する。反対派に考える暇を与えずに、可須水たち、近江派の工作員たちが、これまで各所で行っていた、摂津派公卿たちの骨抜きに仕上げを施し、近江派公卿たちが、活発に活動できるようにする。こうした土台のもとに、帝位に就いた二宮と大納言が、新政府樹立を表明し、そのときには、すでに多数派になっているはずの近江派公卿たちが、その考えを支持する。遷都が始まっても、摂津派公卿たちは、迅速で効果的な行動が、もはや取れなくなっているはずなので、その大半が、旧都となった平安京に、旧時代の人物として、残り続けるであろう。平安京遷都のときに、守旧派が、平城京に置いていかれたように。
 大納言は、この計画を発案し、だれよりも熱心であったはずだ。
 可須水の混乱は、収まりようがなかった。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日