シダ

妖精
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 僕はもう考えてものを書くなんてやめようと思っている。設計図を書いてから、その手順に従って水も漏らさずなんて、誰が読みたがるだろうか。
 今まで書いた文章を引き出しから引っぱり出して、全部破り捨てた。それは、とても簡単な作業だった。だけど、十五年近くもの間、どうしてもできないことだったのだ。
 とても喉が渇いた。
 階下に降りて、コーヒーの用意をした。デパートのキー・コーヒーで仕入れておいた、トアルコトラジャとモカマタリとクラシックブレンドを大缶に開けた。それぐらい気分が高揚していた。三杯ミルに入れ、三分ほど懸命にハンドルを回した。引き出しを抜き、八人用のフィルターにあけ、引き出しはぱんぱんとよくはたいた。注ぎ口の長い銀色のポットに電気ポットから湯を注いだ。キャンドルポットに火を灯した。六人用のサーバーに五杯分の目盛りまでコーヒーを入れた。ベンチに腰かけ、テーブルのシダを見ながら、五杯切れ目なしに飲んだ。それでやっと渇きがいやされたと思った。これほど長くシダを見たのははじめてだった。シダはそよいでいた。いや、そう見えただけかもしれない。シダは涼しげだった。いや、そう見えただけかもしれない。シダは恥ずかしげだった。いや、照れているのは僕の方かもしれなかった。
 彼女は、どうしたのと聞いた。
 それに対してなんにも答えられなかった。
 しばらくして僕は、どうしたんだろうと答えた。ワインでも飲むかとも言った。
 彼女は、私の分もついでくれなくちゃいやと楽しそうに言った。
 ワインは手頃になった。その辺のスーパーに行けば、二千円ぐらいで飲みやすい外国のもの――フランス、ドイツ、スペイン、チリ、カリフォルニア――がいくらでも手にはいる。
 僕たちは週に二回、近くのスーパーで買い物をし、週に一回はワインを仕入れる。赤と白を交互に買う。
 今日は赤を開けた。彼女は一杯だけ飲む。僕は二杯飲む。
 「ねえ、庭見てよ」
 彼女は僕の家のわずかばかりの土地に、いくつかの植物を植えた。僕はほとんど関心を持っていない。ただ、草一本もないぐらいに手入れをしてくれ、整然とハーブやゴールドスターなどが植えられているのを見るのはうれしい。
 僕も庭に降りる。外の空気は新鮮だ。
 「今度苗木買いに連れてって」
 僕は自分の考えに沈んでいて、全く彼女の声を聞いていなかった。しばらくして、聞いているのという強い口調が僕を現実に引き戻した。
 「えっ?何?」
 「今度苗木買いに連れてって」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 シダ
◆ 執筆年 1998年