安部礼二小説作品集

1

　カーナビの表示によると、黒澤敏行の車は国道上を走行している。速度は５０キロに保たれている。彼は彼自身の安全と周囲の安全を確保するために、常に法定速度を遵守していた。
　右側の車線を、他車が７０キロ以上で、次から次へと追い越してゆく。
　彼は通常の人間なら３０分余りで到着する場所へ、たっぷり一時間ぐらいかけて移動する。集中を妨げるから、運転中に音楽を流さない。ニュースでさえも聴こうとしない。もし運転中に地震が発生したらどうするのかと聞く人がいれば、彼は安全な場所に車を止めてからラジオをかけると答えるだろう。
　彼は思わず目を細めた。彼の後ろに追いついたトレーラーの運転手が、パッシングをしたのだ。その運転手は間髪を容れずに車線を変更し、大きなエンジン音を立てて追い越していった。「私は社速を守ります。」とトレーラーの後方に書いてあるのが、敏行の目に留まった。

　地方の大都市の郊外に集中している比較的大きな企業の支社の一つが、彼の新しい配属先である。現代的な建築の社屋を囲んだ、広い駐車場には適度に樹木が配されている。
　車から降りた敏行のスーツの肩に、桜の花びらが落ち掛かった。
「おはようございます。」
　若い女が、よく通る声で挨拶した。
「おはようございます。」
　敏行は女に真直ぐ向き直り、挨拶を返した。
　女の目には、頭髪を七三に分け、丁寧にお辞儀をする、折り目正しい青年が映った。毎日磨かれている黒い靴と、洗練されているとは言えなくても、信頼の置ける人物であるとは一目で判断することができるグレーのスーツも。