安部礼二小説作品集

2

「あら、桜の花びらが付いてますわよ。」
　女は敏行の肩を払った。
　えもいわれぬ良い匂いに敏行は陶酔しそうになった。
「異動してきた人ですね。松村沙於里です。よろしくお願いします。」
「黒澤敏行です。」
「沙於里ー。」
　沙於里と同期で入社した辻村加世子が、真珠色に輝く車から降りたところだった。沙於里はすぐに彼女の元へ寄って行った。
　「すごーい。この車かわいいね。マツダのベリーサじゃない。シートが革張りなんだね。かっこいーい！　加世子、ついに買ったのね。」
　褒め上手の沙於里に言われて、加世子は改めて新車を買った喜びに浸った。そして、満面に笑みを湛えて、忙しく口を動かした。二人は楽しそうに玄関に向かっていく。

　明るく、清潔なオフィスでは、始業前だというのに皆忙しそうだった。
　朝の打ち合わせを終えた課長と四人の係長が営業課のオフィスに入ってきた。敏行も他の数名の赴任者と一緒に入室する。社員たちの視線が一斉に集まる。
「今回の異動で当支社に配属された方々です。」
　課長の紹介に続き、一人一人が挨拶した。その後、係長の案内で、黒澤は第一営業係に与えられた自分の席に着いた。
「黒澤さん。」
　沙於里が笑顔で話し掛けてきた。
「同じ係になったのね。よろしくお願いします。」
　敏行が丁寧に挨拶を返していると、新車を買った辻村加世子も挨拶をしてきた。彼女も同じ係だった。
　それから、第一営業係の構成員一人一人に挨拶をして回ると、一人嫌味を言う男がいた。
「黒澤さん、なかなか抜け目がないね。赴任早々に松村沙於里と仲良くなるなんてね。」
「勘繰らないでくださいよ、早川さん。駐車場で挨拶をしただけなんですから。」