ギンザ

麗しのサブリナ
prev

1

 冬の終わりの都会を歩く人たちは、コートを風にはがされないようにしっかり手で押さえつけていた。1950年代の銀座は若者たちで埋めつくされていた。
 田村秀幸は、銀座通りの小さなお茶屋に向かっていた。秀幸はその店に働いている女の子をデートに誘おうと考えていた。
 秀幸の抱えている茶色の小さなバッグの中には、映画のチケットが入っている。オードリー・ヘップバーンとハンフリー・ボガートが主演する、『麗しのサブリナ』だ。ついこの間封切られたばかりの話題作である。
 秀幸は映画など見たことがない。ヘップバーンもボガートも知らない。
 秀幸は、この日のように寒いある日、大学の友だちと銀座を歩いていた。もちろん男の友だちだ。彼は女の子といちどもつき合ったことがない。興味がなかったのだ。彼は4年間わき目もふらずに勉強した。彼は省庁か大企業に入りたかった。しかし必死に努力したにもかかわらず、それは失敗に終わった。それで、地元のそれほど大きくない会社に入社することに決めた。あと2週間もしないうちに故郷に戻るのだ。彼は友だちにつき合ってもらい、スーツを買いにいった。実家に戻ってから買ってもよかったのだが、どうせなら東京で最新のスーツを買って帰りたかった。ろくに街で遊ばなかったのに、東京の空気が好きだった。できれば東京から離れたくなかった。その思いが、せめてスーツをという形を取ったのだ。
 彼は銀座でも有名な店で高いスーツを買った。彼にとっては思いきった買い物だった。なんだか世界が変わってくるような気がした。
 友だちと並んで大通りを歩いて、銀座の街並がとても美しく見えた。彼はこんなふうに高い服を買ったり、街中を歩いたりするなんてほとんどなかったな、と思った。もっとたくさん遊んでおけばよかったかもしれない、と思った。
 銀座にはその日もたくさんの人たちが早足に歩いていた。そして、たくさんの店が、商品や広告を色とりどりに並べていた。
 秀幸は珍しそうに顔をきょろきょろさせた。彼の友だちは、上京してきたばかりのいなか者みたいだぞとからかった。秀幸はそれにはかまわないで、帰郷する前の、最後の東京の繁華街の姿をいとおしく眺め回った。
 その時、お茶屋の店頭で、お茶をいれてすすめている女の子の姿が目にとまった。秀幸はひと目でその女の子が気に入ってしまった。「どうぞ」とすすめられるままに、お茶を受け取り、その女の子を眺めた。彼女は「どうぞ」と、彼の友だちにもお茶をすすめた。18かそのくらい。美人で、お茶を受け取ると、とてもうれしそうな顔をする。
 「よかったら、お茶を買っていきませんか?」
 ぼんやりしている秀幸に女の子は売りこみをはじめた。彼はいわれるがままにお茶を買った。
 秀幸はその女の子に恋をしてしまった。はじめて見たその場で好きになってしまうなんて、彼にはいちどもなかった。その時から彼はその女の子のことばかり考えていた。
 その日は、友だちと別れると、また繁華街に戻り、映画のチケットを買った。何を買えばいいのかわからなかったので、いちばん大きく宣伝しているものにした。それが、『麗しのサブリナ』だった。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 ギンザ
◆ 執筆年 2004年5月4日