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失せ物

 台風が去った翌日は、朝から強い陽射しが照りつけ、湿度が上昇して、着替えをするだけで汗が流れた。築二十年以上は経過した木造アパート、白百合ハイツのペンキのはがれかけた壁を炎熱が一層痛めつけた。
 松本小雪は、薄い色でグレーのTシャツを着た後、押入れの下部に備え付けてある引き出しを閉めた。引き出しは三段ある。今度は一番下の引き出しに手を伸ばした。
 「開きにくーい。」
 やっと開いたと思ったら、衣類の一番上に古ぼけた大学ノートが乗っていた。これが引き出しの隙間に引っかかっていたのは疑いない。彼女は無造作にノートを机の上に投げると、少しの間衣類ケースの中をかき回していたが、やがて肌触りがよさそうな、アイボリーのスカートを取り出して、手早く身にまとった。
 (なあに、このノート?)
 小雪は何気なく表紙を開いた。鉛筆で細かい文字がぎっしりと書き込まれていた。小雪は初めの一文を読んで、目がそこに釘付けになった。書いたのは、この部屋の昔の住人だろうか。男子大学生とおぼしき書き方で、小雪には全く想像もつかない内容のことが書き表されていた。

  君がいつかこのノートを手に取って読んでくれる日が来ることを待ち望んでいたよ。

 小雪は背筋にぞくっと冷たいものが走るのを感じて、思わず両腕で胸を抱き締めた。急にこのノートが不気味なものに感じられ、一刻も早くごみ箱に放り込んでしまいたかった。その一方で続きが気になって仕方がないという妙な思いもあった。好奇心に打ち克てなかった。ほんの少しだけのつもりで続きを読んだが、止まらなくなってしまった。

  君は文学部二年生の女の子だろう。ロングヘアーにシックなブラウンのカチューシャを付けている。これから講義を受けに行くところだけど、まだ時間があるから、キャンパス内のカフェで友達と話をして過ごそうと思っている。フフフフフフ。全部当てずっぽうだよ。気を悪くしないでね。おっと、閉じちゃだめだよ。僕は決して君に危害を加えたりはしないから。えっ、僕の書いたことが全部当たっているって? 本当かい? もしかしたら、僕には予知能力があるかもね。フフフフフフ。僕は君のことをとても気に入っているから、僕にできることがあるなら、何でも助けてあげるよ。

 こういう調子で延々と書きつづられていた。彼女と全く関係のない古いノートの書き手は、彼女の現在の様子をよく知っているようだった。彼女のよく聴く曲、好きな食べ物から、高校生の頃、硬式テニス部で練習中、よく手首を傷めて病院に通っていたことまで知っていた。それだけではない。今、蝉が鳴くよと書いてあった箇所に差し当たると、白百合ハイツの(昔は)白亜の外壁に止まっている蝉が、警報のようにわめきだした。
 小雪は突然の大音響に、はじかれたように立ち上がり、ノートを開いたままゴミ箱に近付いた。気味の悪い生き物でも見るようにして、ノートを投げ捨てる前に、もう一度のぞいた。

  捨ててみろ。お前を殺してやる。

 カシャーン! 突然の金属音に小雪の心臓は張り裂けそうになった。見ると、大きなはさみが足元に転がっている。冷蔵庫の上から何かの拍子に落ちたのだろう。彼女は思わずノートに目を移した。

  今度ははさみじゃすまないよ。いいかい。約束だ。このノートを捨てないこと。それと、一日一度はノートに目を通すこと。守らなかったら、今度は君の体に傷をつける。

 口調が元に戻っていた。だが、内容の一層の過酷さに、小雪は体の芯が凍った。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 ノベル
◆ 執筆年 2008年2月11日