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家族団欒

 雨音を聞きながら、私はサイフォンでコーヒーを淹れ、1960年代のアメリカン・ポップスを流した。
 この時代のアメリカン・ポップスには、人の気持ちを救ってくれる何かがある。私も当時、貧しく自信を失った日本で、力強く明るいアメリカを目標に生きていたのだろう。私はまだほんの小さな子供だったが、幸福で豊かなアメリカの生活を胸に抱いて、裸電球の下、家族と卓袱台を囲み、粗末な夕飯をつついていたのである。今でこそ、昭和三十年代とか四十年代の街並みが懐かしいなどと世間では言っているが、あの頃は、大人も子供も生きるのに必死だったのである。日本社会は貧しくて、とてもではないがアメリカのように豊かになれるはずがないと痛感しながらも、アメリカの麗しい灯りに魅了され、ラジオに流れるポップスを聴いて、心を弾ませていたのだ。
 コニー・フランシスの『カラーに口紅』を聴いていると、あの頃の商店街でりんごの詰まった段ボール箱を運んでいた店員の姿が蘇ってくる。特別な時だけに、デパートへ連れて行ってくれて、未来の都市を空想させるブリキのおもちゃを買ってくれた父と母も。路地裏でバドミントンをした近所の子供達も。この曲は何度聴いても飽きないし、いつ聴いても楽しい気分にさせてくれる。そして、懐かしく慎ましやかなあの頃の暮らしを蘇らせてくれる。
 玄関のドアが開く音がした。遼子が大学から戻ってきたらしい。階下で、高く明るい声がしている。どうももう一人女性を伴って帰ったらしい。しばらくすると、階段を軽い足取りで昇る音がして、私のいる書斎のドアが開いた。
 「ただいま。ねえ、パパ。しばらくゆきちゃんをうちに置いてやっちゃあ、だめ?」
 後ろから小雪さんが入ってきて、私に頭を下げた。
 「あつかましいお願いをして申し訳ありません。」
 「実はね、桃ちゃんがね……。」
 遼子が詳しく状況を説明してくれた。あの事件の後しばらく、小雪さんは実家から大学に通っていたが、目のぱっちりした世良桃子に誘われてそのアパートに同宿することにしようとほぼ決めていた。やはり実家から通うには遠すぎて卒業まではとてもではないが通い切れないと思ったので、当座の間はお言葉に甘えて世良さんに厄介になろうと思っていたのだ。ところが、世良さんの失言が禍して、その話は流れた。そこでその代案を遼子が提示したというわけだ。まさか、この年齢でこれぐらいの理由で、本当に世良さんと松本さんの仲が裂けたわけではなかろう。そういう事情とは関係なく、やはりアパートで二人の大人の女性が一緒に暮らすのは何かと不都合もあると思い、内々遼子は我が家の客間を提供してもいいと考えていたようだ。
 もちろん私は、一も二もなく承諾した。あのような怖い体験をして、女の子が一人暮らしを続けるのは相当つらいことだろうし、それに彼女は気立てもよいので、同居に不安を感じなかったからだ。控え目なお姉さんなので、璃鴎も気に入っているみたいだ。うちは風呂が二階にもあるので、それを松本さんに使ってもらえばいい。
 私はそう言って彼女を安心させた。彼女との同居もしばらくすると、すっかり慣れてきた。
 そのうちに、世良さんや蒲生さんがしょっちゅう勉強しに来るようになった。彼女たちは以前、璃鴎のことを気に入って、しばらくの間頻繁に我が家に遊びに来ていた。さすがに最近はほとんど顔を見せなくなっていたのだが、今は以前にも増して、この家に出入りするようになった。夕食をみんなで囲むことも多くなったし、遅くまで勉強していた二人が小雪さんの部屋でそのまま泊まってしまうこともよくあった。
 そんなふうに、三人の女子学生が日常に入り込むようなにぎやかな生活がこれからもしばらくは続いていきそうだ。まあ、そのうちに小雪さんも他人と暮らすことに窮屈さを覚えて、また一人暮らしに戻るようになるのだろうが。それまでは人の温もりが味わえるような生活を送ることも悪くないのかもしれない。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 ノベル
◆ 執筆年 2008年2月11日