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歩夢の手紙

 亜矢子は、やっと幸福な日々が訪れたと思った。光り輝く青春の日々は、自分にとってはいったいなんだったんだろう。出会ったときから興味を抱くことのできない男と暮らすことになり、ほとんど奉仕に近い毎日を送ってきた。そこへ、秀樹という、信念を持った男性が登場し、ようやくまともな人生にたどり着くことができた。自分も秀樹も充実感のある活動にいそしみ、人々の信頼とささやかな尊敬を得て、いつか実り多い人生の収穫期を迎えることができるだろう。先の見えない歩夢とのその日暮らしとは大違いだ。
 しかし不思議なことに亜矢子は、秀樹との、日常の一コマ一コマに愛着を覚えながらも、なぜか、よく歩夢のことを思い出した。彼の語っていた言葉の断片が何かの折に、ひょいと頭に浮かんでくる。
 彼は、自分の不遇と自分の天才をよく語っていた。
 「なぜ、俺はひどい家庭に生まれたのか。俺がおまえのような普通の家庭に生まれ育っていたら、難なく東大に行っていただろう。俺はもともと勉強が好きなのだ。だから、こんなひどい家庭に生まれても、名の知れた私立大学に入学できたし、学費は奨学金でまかなえた。それに、一流の出版社にも入社できた。だけど、俺は何もかもに疲れた。仕事も思ったより面白くない。俺はもっといい写真が撮りたいのだ。今ある写真はどれもだめだ。俺が画期的な仕事をして、世界を変えてやるんだ。俺にはそれができる」
 会社を首になってからは、酒を飲みながらいつもそんなことを言っていた。どんどん、どんどん、生活が乱れていき、行動が怪しくなってきた。得体の知れない連中と付き合うようになっていった。亜矢子が、「あの人たちは誰なの?」と、たずねると、「マスコミ関係者だよ」と、見え透いたうそを言っていた。電話での会話から推察される内容からは、とてもマスコミ関係者には思えなかったのである。きっと何かあくどいことをやって、金を作っていたのではないかと、今でもそう思われてならない。こんな男と一緒にいたら自分の人生がめちゃめちゃになると思って、同棲するのをやめたのだ。それに引き換え、秀樹は、心から信用して、愛情を注ぐことができる。一刻も早く忌まわしい過去を忘れて、幸福な日々を送っていこう。亜矢子はそう思いながらも、どうしても時々歩夢のことを考えてしまった。心に小さな穴が空き、どうしても埋まらないのだ。精神的外傷というものかもしれなかった。

 ある夕方、秀樹が県庁から帰り、ポストを確かめると、いくつかの領収書に混じって、歩夢からの手紙と現金書留が届いていた。いずれも秀樹宛だった。彼は、慌てて封を切り、便箋を取り出し、文面を読んだ。

  拝啓 秋冷の候、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。日頃は大変お世話になっております。
 さて、私ことですが、もう一度人生をやり直そうと思い、現在新天地におります。今までは自身の不遇を託つばかりで何一つ真剣に打ち込もうとしてきませんでした。最近は地方の産業が老齢化により衰退の一途を辿っているという報道に頻繁に接します。そういう中でも都会の若者で現代の社会の向かう方向にどうしてもなじめず、伝統産業に携わろうとする者が数は少ないですが現れてきました。私も、自然の味の豊かさに魅了され、四国の塩田で働くことを決意しました。こちらは気候も温暖で、生活が素朴で、都会の毒に当てられていた私を浄化してくれるような気がします。仕事は厳しく、身も心も鍛えなおされているといった具合ですが、人情が温かく、生まれ変わった気さえいたします。思えば、お二人には多大なるご迷惑をお掛けしてしまいました。今になってみると、自分が鬼か何か、少なくとも人間以外の化け物に成り果てていたように思われて恥じ入っております。これからは真人間になり、素朴で充実した人生をこの地方で送っていきます。何はともあれ、長い間いろいろとお世話をかけました。
 お二人とも末永くお幸せであられることを衷心よりお祈りしております。乱筆お許しください。
敬具

追伸 なお、秀樹さんが立て替えて下さったお金は五年以内に必ず返済いたします。毎月現金書留で五万円送金します。もう少し返済できるときもあると思います。このことは一生恩に着て生きていきます。秀樹さんは命の恩人です。

二伸 いつか、お金を貯めて、利益を追求せずに、おいしく安全な食事を提供するお店を開くことが私の目下の夢です。そのときには、秀樹さんたちには案内状をお送りいたしますので、楽しみにしていてください。

 住所はなかった。秀樹は亜矢子を呼んだ。
 「おい、亜矢子。歩夢さんから手紙が届いたよ。心を入れ替えて、塩田で働いているんだってさ」
 亜矢子が赤ん坊を抱えて玄関にきた。ベッキーが後を追いかけてくる。亜矢子は、秀樹との生活に慣れきり、満面に幸福を漂わせている。
 「えー、何? どこで働いているって?」
 「塩田だよ。塩を造っているんだってさ」
 亜矢子は手紙を受け取り、赤ん坊をあやしながら、手紙を読んだ。
 「彩夏、ほら、お父さんの方へおいで」
 すっかり子煩悩になった秀樹が上手に赤ん坊をあやしながら、ダイニングルームへ行く。亜矢子は思わず玄関に立ち止まり、手紙に釘付けになる。歩夢に対して愛情が残っているわけではないが、いつも無防備な歩夢の笑顔を思い出して、ほろりと涙が出てしまった。そういえば無防備な笑顔のために、つい優しく情をかけたのが付き合い始めたきっかけだったのを思い出した。塩田で働くというのも、歩夢のやりそうなことだと彼女は思った。彼のことだから、とことんこだわって、おいしい塩を造るようになるのかもしれないという気がした。一瞬、馬鹿に真面目な塩造り職人の歩夢と、貧しいけど充実した生活を送る自分自身の姿を思い浮かべた。それは彼女の胸にほんの一瞬浮かんだだけで、消えていったが、彼女の目には自分でも理由のわからない涙が浮かんだ。涙をぬぐって、いつもの幸せそうな笑顔で彼女はダイニングルームに入った。そこにはどっしりとたくましく、温かい秀樹と、穢れを知らぬあどけない彩夏がいる。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 シナリオ
◆ 執筆年 2010年5月16日