シナリオ

飛行機
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CUT 5   秀樹の告白

 ダブルの部屋だった。それしかとれなかったのだが、亜矢子は何も言わなかった。ホテルの部屋は二十階程度の高さで、街の夜景がよく見渡せた。秀樹と亜矢子はしばらくの間、並んで立って、窓越しの夜景を眺めていた。
 「ひどい事故だったんだ。なにもかもめちゃくちゃになっちゃってね。母親とショッピングモールに行った帰り、昼間から酒を浴びるほど飲んだ男が対向車線をはみ出して突っ込んできたんだ」
 淡々とした口調で話す秀樹の横顔を、亜矢子ははっとした表情で見つめた。
 「私ね、そのことを知ってる。夢で見たの」
 秀樹はびっくりして亜矢子を正面から見据えた。
 「いつ?」
 「たぶんその事故のころ。今の部署に私が配属した年じゃない?」
 「そうだ」
 「私、あなたのこと、すごく好きになったの。夢の中で、どうかあなたと一緒になれますようにって、お願いしたの。そしたら、ある時、事故の夢を見た。とても美人の女の人が、車の中で血だらけになっている。私、こういう夢を見るとき、ものすごくいやな気分になるの。なぜかというと、自分が幸運をつかんだ分、だれかが災難に見舞われるからよ。わかるの。それってそういうことなの。夢から覚めて、『しまった、取り返しのつかないことになっちゃった』って、思わず口に出して、すごくいやな気分になった。私、だから、その人にものすごく悪いなって、それ以来ずっと、後ろめたく感じているの」
 秀樹は、亜矢子の肩を両手でつかんだ。
 「そんなことあるはずないだろ。亜矢子が罪悪感を持つ必要なんてまったくないさ。酔っ払いのせいなんだから」
 亜矢子は黙って秀樹を見つめていた。どのくらいそうしていただろうか。亜矢子に見つめられたまま、秀樹はなぜだか口を開けなくなった。亜矢子の顔は、なにかを知っている顔だった。頭がしびれるほど、秀樹は亜矢子の顔を見て、立っていた。マネキン人形のように立っていた。時間は完全に止まっていた。亜矢子が口をぱくぱくさせたのと、亜矢子の声が耳に入るのが、同時刻の出来事だと気づくのに数秒かかるほど、頭がしびれていた。
 「あるときね、すごくいやな夢を見たの。夜中に突然目が覚めて、眠れないの。夜中に目が覚めても、普通だったら、少しするとまた眠くなるのに、そのときはぎんぎんに目が冴えちゃって、どうしようもないの。そのとき、ものすごくいやな感じで胸が締めつけられたの。なにかとてつもない大きな力がどこか遠いところに渦巻いているのよ。そのときの感情を今説明することはできない。思いだすこともできない。そのぐらいいやな気分だったの。あまりにもいやな感じだったんで、シャットアウトしてしまうの。これはなにかたいへんなことが起こるなと思った。胸がドキドキして、何か行動すべきだと思うんだけど、体が動けないの。そのままずっと身じろぎもせずに横になっていたわ。二時間ぐらいたったのかしら、私はいつしか眠ったみたい。そして、朝目を覚ましたとき、私は、ああ、もうすべてが終わったんだって思った。私は、朝食をとりながら、テレビを見た。二つの高いビルに飛行機が突っ込んでいた。これだったんだって思った。ああいう大きな出来事が起こるとき、私は事前に感じることができるの。あとね、私は自分に迫ってくる危険を察知して行動することもできるの。でも、私が免れた危難は、なくなるわけじゃない。私の代わりに誰かが災難にあうのよ。だから、私は自分が危難を避けるときに見る夢のために胸が締めつけられそうになるの。私が意識的に幸運を手にする時も同じ。幸運が大きければ大きいほど、誰かがひどい災厄に見舞われる。だから、私は幸運をなるべく願わないようにしているの。でも、あのときは、あなたに会ったときは、私、どうしようもなかった。夢で強く、とても強く願ってしまった。どうなってもいいと思った。そうなる運命だと思ったの。そのぐらいあなたが好きになったの」
 亜矢子の口の動きがとまった。もつれてこんがらがったものが、一気にでてきたあとにできる、唐突な間がしばらく二人をとまどわせた。
 「そういうことがあるのかもしれない」月の光に照らされた秀樹の横顔に変化がでた。
 「もしそうだとしても、亜矢子には悪意はなかった。そうだろ?」
 「ええ」
 「婚約していたんだ」
 「ごめんなさい」
 秀樹は視線を外し、窓の外を眺めた。
 「謝る必要はないさ」秀樹はまた亜矢子の顔を正面にとらえた。「事故で死んだあと、もう二度と誰も愛さないと思った」
 「そんなにまで愛していたのね」
 「ああ」
 今度は亜矢子が夜景を眺め、秀樹が彼女の横顔を見つめた。亜矢子の頬を涙が伝った。
 「ごめんなさい。本当にごめんなさい」鼻をすすりながら、何度も言った。
 「長い間、気持ちの整理が付かなかったんだ」
 秀樹は亜矢子を見つめた。涙でぐしゃぐしゃになっていた。
 「亜矢ちゃんと結婚するはずなどなかったんだよ」
 「一年経てば、私であきらめてもいいという気持ちになるかもしれないと思っていたのね?」
 「いや、そうじゃない。でも、迷っていた。だから、一年時間を置きたかった。ただね、本当はもうほとんど亜矢子への思いは出来上がっていたんだよ。それに決定的なことがあった」
 「決定的なこと?」
 亜矢子がまた秀樹の目を見つめた。
 「ああ、死んだ彼女が夢の中に出てきた。亜矢子と一緒になりなさいって言っていた」
 「……」
 「それで、ふっきれた。不思議なもんだ。おまえが守護霊を信じていることを疑っていたくせに、自分だって、幻想に近いようなことをきっかけに、意志決定している。だけど、その夢のあと、亜矢子と早く結婚しなくちゃいけないって、今まで以上に思うようになったんだ」
 二人は夜景を眺めた。無言だった。空調の音が馬鹿に大きく感じられた。しばらくして、亜矢子が秀樹の手を握った。秀樹は強く握り返した。亜矢子の手は熱く湿っていた。もう互いに何も言う必要はなかった。
 亜矢子がまっすぐに秀樹を見詰めた。二人の目と目が語り合った。どのくらいそうしていただろうか。彼はそっと彼女の背中に腕を回し、自分の方へ引き寄せた。まるでこの瞬間を遠い昔から待ち望んでいたかのように、二人とも真剣に相手を抱きしめた。
 二人はベッドに倒れこんだ。秀樹は亜矢子の服を優しく脱がした。亜矢子は秀樹を軽く押しのけて、バスローブをまとい、シャワーを浴びた。その間秀樹はビールを一缶空けた。続いて秀樹もシャワーを浴びた。浴室から出ると、亜矢子が窓際で外を眺めていた。月の光を浴びて美しかった。秀樹が腰を抱くと、彼女は振り向いた。二人はまた強く抱き合った。秀樹はあまりの幸福感のために体が振るえ、鳥肌が立った。
 秀樹は永久にそうしていたいという様子で、亜矢子の体中を愛撫した。そして、イタリアのホテルでは果たし得なかったことを果たした。感動の渦のため、体中が激しく震えた。秀樹は胸が熱くて仕方がなかった。亜矢子は泣きじゃくっていた。亜矢子の涙が頬に触れて熱かった。彼女は絶対に離すまいという様子で、秀樹の背中を抱きしめた。
 「秀樹。秀樹。私とずっと一緒にいてね」
 「離すもんか。絶対に」
 月光を浴びながら、気が遠くなるような長い時間、互いの顔を見つめあった。それから、二人は何時間も話し続けた。次から次へと話が尽きず、やっと夜が白々と明けた頃に眠りについた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 シナリオ
◆ 執筆年 2010年5月16日