憑依

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怪奇幻想の部類は、重々しく扱われないのが常である。『源氏物語』と比べれば、『雨月物語』は数段劣るものと、やはり私は考えてきた。『ローマの休日』と比べた時の『エクソシスト』も同様である。先頃、太宰治の文章を読んでいたら、孔子が鬼神を語ることは君子の慎むべき事柄だと説いていると書かれていて、私は神妙な気分になった。しかし、太宰は決して怪談をかきあらわすこと自体を戒めたわけではない。また、漱石の論文を読んでいたら、文学作品に人間の情緒がどのように扱われているかが整理整頓されてあった。人間の情緒にもさまざまあるが、一つ一つ例を挙げて論じる中に、恐怖はその筆頭に掲げられていた。恐怖を言い表すことは、決して卑しむべきことではない、と私は勇気を得た。もちろん私は、とりわけホラー映画を愛好しているとか、怪異譚を妄想することに血道を上げているとか、そういうことはない。むしろ、巷間に異界の物語があふれ返っている現代日本に、私のような下手の横好きがしゃしゃり出て、あえて反古を増やす必要もあるまいと思うくらいなのである。
ところが、最近私は思っている。この世の中には怪異が満ち満ちていると。決して比喩的に言っているつもりではない。蛇の精にとりつかれて身を滅ぼす人は、いくらでもいるのである。実はつい最近、私のきわめて近親の者にも、このような災厄のために深刻に憂慮すべき事態に陥ったということがあった。どうにか流されることだけは免れて、浜辺でぐったり横たわり、元の道に戻る方法を思案しているようであるのだが、私は随分と心配させられてしまったのだ。
数年前、私は、『カサダ』という怪異話を書いた。一口に言えば、無腸先生、上田秋成の『吉備津の釜』の翻案小説である。翻案小説などとはかたはらいたい。できそこないである。そしてまた、よせばいいのに、無腸先生の魅力に抗しえず、『蛇性の婬』を私なりに書き変えてみたくなった。ほかにやるべきことがたくさんあるはずなのだが、熱病にかかったみたいに、それにかかりきりになるときは、無駄な努力はしない方がいいと、最近わかってきた。勢いに任せてとにかく万年筆で紙をひっかいてみることにしよう。
昭和三十七年、和歌山県に、とある漁村があった。漁村といっても、かなり大規模に漁業を展開し、この地方では大きな産業であるし、行政区画でいうと、「村」ではなく、「市」に位置づけられる。日の光を顔じゅうの皺に折りたたんではいるが、体格もよく、甲斐性ありげな顔つきの男は、昔風でいえば「網元」だった。大宅武雄といった。今は、漁業協同組合というものができ、身分差はなくなったが、それでも大宅が経営者的な立場で、村の元「網子」たちを使っているという事実は変わりない。
ところが、最近私は思っている。この世の中には怪異が満ち満ちていると。決して比喩的に言っているつもりではない。蛇の精にとりつかれて身を滅ぼす人は、いくらでもいるのである。実はつい最近、私のきわめて近親の者にも、このような災厄のために深刻に憂慮すべき事態に陥ったということがあった。どうにか流されることだけは免れて、浜辺でぐったり横たわり、元の道に戻る方法を思案しているようであるのだが、私は随分と心配させられてしまったのだ。
数年前、私は、『カサダ』という怪異話を書いた。一口に言えば、無腸先生、上田秋成の『吉備津の釜』の翻案小説である。翻案小説などとはかたはらいたい。できそこないである。そしてまた、よせばいいのに、無腸先生の魅力に抗しえず、『蛇性の婬』を私なりに書き変えてみたくなった。ほかにやるべきことがたくさんあるはずなのだが、熱病にかかったみたいに、それにかかりきりになるときは、無駄な努力はしない方がいいと、最近わかってきた。勢いに任せてとにかく万年筆で紙をひっかいてみることにしよう。
昭和三十七年、和歌山県に、とある漁村があった。漁村といっても、かなり大規模に漁業を展開し、この地方では大きな産業であるし、行政区画でいうと、「村」ではなく、「市」に位置づけられる。日の光を顔じゅうの皺に折りたたんではいるが、体格もよく、甲斐性ありげな顔つきの男は、昔風でいえば「網元」だった。大宅武雄といった。今は、漁業協同組合というものができ、身分差はなくなったが、それでも大宅が経営者的な立場で、村の元「網子」たちを使っているという事実は変わりない。