憑依

30
「兄貴、俺が無実だってこと信じてくれるのかい?」
武一郎は弟を見つめ、大きくうなずいた。
「得体の知れない何かがお前につきまとっているのは確かだと思う。お前のことが心配だから、明日は俺もついていく。だから、怖がらずに身の潔白を警察に証明してやれ」
うなずく豊雄を見つめながら、武一郎は何か浮かぬ顔をしていた。
「兄貴、まだなんかあるのかい?」
武一郎は首を振った。
「いや、なんでもない。ただ、何か頭に引っ掛かることがあるような気がしたんだけど、思い出せないんだ」
「なんなんだよ。思い出してくれよ。頼むよ」
豊雄は自分の身に降りかかった不可思議を解き明かすためだったら、どんな些細なものにでもすがりたくて、兄の両腕を激しく揺さぶった。
「悪い、どうしても思い出せないんだ。またそのうちに思いつくと思うんだ。そしたら、すぐ知らせるから待っててくれ」
武一郎は部屋から出ていった。一人残された豊雄は床に入ったが、まんじりともせず、夜を明かした。夜明けごろにうとうとすると、妙に恐ろしい夢をいくつも見た。姉がカーテンを開けながら起こした時、急に世界が真っ白になり、自分がどこで何をしているのかよくわからなかった。朝の光で真っ白になったのかと思うと、妙にうれしくなった。顔を洗い、新聞を読む父にあいさつし、兄の横で箸を持つと、今日の実況見分が現実味を帯びてきた。兄はいつもと変わらぬ顔で、アジの身を器用にほぐしていた。豊雄はたくあんと味噌汁で飯を一膳だけ食べ、茶をすすりながら父の読み終わった新聞に目を通していた。子供のころの昔から変わらぬ食事の風景で、兄と父は今にも漁に行きそうだったが、そんなことはなかった。兄に早く支度しろと言われ、豊雄は畳に手をついて立ち上がった。八時。漁に行くのだったら、こんな時間まで兄と父がいるはずないのだ。
役場で戸籍から抹消した。手続きはとても簡単だった。玄関ホールの元気のない鉢植えの脇を歩き、外の日差しに目を細めると、大きなイチョウの下に停めたセダンから、二人のスーツを着た男が下りて近寄ってきた。市長の息子ということだからかわからないが、とても丁重に豊雄を扱った。しかし、豊雄がおかしなまねをしたら即座に強硬手段に訴えることは明らかだった。刑事たちは武一郎の申し出を受け入れた。豊雄は後部座席に、長身の刑事の隣に乗せられた。武一郎はラグビー選手のような体格のもう一人の刑事の助手席に乗った。二人とも県警の刑事だった。実況見分が終わったら、所轄と本庁の刑事に引き渡すことになっていると告げられた。車の中で尋問されたが、豊雄は本部長に伝えたことをもう一度繰り返すだけだった。それ以外は何も聞かなかった。武一郎も口を開かなかった。長時間、男四人が黙りこくって、暑さに耐えた。
武一郎は弟を見つめ、大きくうなずいた。
「得体の知れない何かがお前につきまとっているのは確かだと思う。お前のことが心配だから、明日は俺もついていく。だから、怖がらずに身の潔白を警察に証明してやれ」
うなずく豊雄を見つめながら、武一郎は何か浮かぬ顔をしていた。
「兄貴、まだなんかあるのかい?」
武一郎は首を振った。
「いや、なんでもない。ただ、何か頭に引っ掛かることがあるような気がしたんだけど、思い出せないんだ」
「なんなんだよ。思い出してくれよ。頼むよ」
豊雄は自分の身に降りかかった不可思議を解き明かすためだったら、どんな些細なものにでもすがりたくて、兄の両腕を激しく揺さぶった。
「悪い、どうしても思い出せないんだ。またそのうちに思いつくと思うんだ。そしたら、すぐ知らせるから待っててくれ」
武一郎は部屋から出ていった。一人残された豊雄は床に入ったが、まんじりともせず、夜を明かした。夜明けごろにうとうとすると、妙に恐ろしい夢をいくつも見た。姉がカーテンを開けながら起こした時、急に世界が真っ白になり、自分がどこで何をしているのかよくわからなかった。朝の光で真っ白になったのかと思うと、妙にうれしくなった。顔を洗い、新聞を読む父にあいさつし、兄の横で箸を持つと、今日の実況見分が現実味を帯びてきた。兄はいつもと変わらぬ顔で、アジの身を器用にほぐしていた。豊雄はたくあんと味噌汁で飯を一膳だけ食べ、茶をすすりながら父の読み終わった新聞に目を通していた。子供のころの昔から変わらぬ食事の風景で、兄と父は今にも漁に行きそうだったが、そんなことはなかった。兄に早く支度しろと言われ、豊雄は畳に手をついて立ち上がった。八時。漁に行くのだったら、こんな時間まで兄と父がいるはずないのだ。
役場で戸籍から抹消した。手続きはとても簡単だった。玄関ホールの元気のない鉢植えの脇を歩き、外の日差しに目を細めると、大きなイチョウの下に停めたセダンから、二人のスーツを着た男が下りて近寄ってきた。市長の息子ということだからかわからないが、とても丁重に豊雄を扱った。しかし、豊雄がおかしなまねをしたら即座に強硬手段に訴えることは明らかだった。刑事たちは武一郎の申し出を受け入れた。豊雄は後部座席に、長身の刑事の隣に乗せられた。武一郎はラグビー選手のような体格のもう一人の刑事の助手席に乗った。二人とも県警の刑事だった。実況見分が終わったら、所轄と本庁の刑事に引き渡すことになっていると告げられた。車の中で尋問されたが、豊雄は本部長に伝えたことをもう一度繰り返すだけだった。それ以外は何も聞かなかった。武一郎も口を開かなかった。長時間、男四人が黙りこくって、暑さに耐えた。