憑依

花
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「あっ、お嬢さん、大丈夫?」
 井上さんの娘の叫び声に話が中断された。優子が低い声でうめいている。娘さんは制服の背中をやさしくさすった。
「優子ちゃん、大丈夫?」
 富子はすぐに近寄り、ひざまずいて、優子の顔色を窺った。その目が大きくひらいた。
「大丈夫です」
 話を中断された正子は記憶をたどろうとした。しかし、さっきからたずねてみたいと思っていた武一郎に邪魔される形になった。
「そういえば、さっきの話で出てきた中村という人は、今もご健在なんでしょうか。できればそのかたにもお話を伺いたいのですが」
「それなんですけれども、実は数年前ですか、ひょんなことから噂を聞きましてね。今、大阪の梅田駅前でホテルを経営しているそうですよ」正子はホテルの名前を言った。
 優子がまた低い声でうめいた。よく聞くとそれは生理的現象に対する訴えだった。
「ちょっとお手洗いをお借りしたいんですが」と、恥ずかしそうに言う。
 富子が階下に降りて場所を聞き、もどってくると、優子は付き添いを断って、ゆっくり歩いて行った。
 襖が閉まるまで西山和尚はじっと見ていた。
「あれ、猫がいない」と、武一郎が言った。
 さっきまで正子が正座している横でおとなしく寝ていたはずの白猫がいつのまにかいなくなっていた。
「ああ、さっきお嬢さんがお出になったとき、さっと部屋から抜けていきましたよ」
 正子の娘がなんでもないというふうに言った。よくあることのようだ。
 豊雄は眉をしかめて西田に耳打ちした。西田もうなずく。
「井上さん」と、西田が言った。「あの猫は、ここ最近、家を長くあけることがありませんでしたか」
 正子は人のよさそうな丸い顔を西田に向けた。
「ええ、ずっと帰ってこなかったんで心配してたんですよ。このごろ、やたらと外へ出るようになってしまったんですよね」
「昔はそうではなかったのですか」と、豊雄が言った。
「ええ、いつもうちにいるいい子でしたよ」
 豊雄と西田和尚は顔を見合わせた。
「いつごろから外へ出ることが多くなったのでしょうか」と、西田和尚がきいた。
「さあ、いつだったでしょうか。四、五年ぐらい前だったからしねえ。でも、そのころはまだ時々出かける程度だったと思いますよ。頻繁に家をあけるようになったのは、二、三年前ぐらい前だったんじゃないかしら」正子は天を仰いだ。
「それにしても、優子さんはもどってきませんね」
 西田は優子の出ていった襖を見つめながらそう言ったが、やがてゆっくりと立ちあがった。
「富子さん、ちょっといっしょにお願いできますか」
「は、はい」
 西田が座敷の外へ出ると、怪訝そうな顔つきで富子は追いかけた。廊下に出ると、優子さんの様子を見てきてほしいと言われた。やっと話が飲みこめてきた富子は、うなずいて階下に降りた。
 洗面所で富子が何度呼んでも返事はなかった。洗面所の外で西田が待ちわびていた。状況を伝えると西田は恐い顔をして、富子に中に入って確かめるよう指示した。富子はためらったが、繰り返し言われて、中に入っていった。
 彼女はすぐに出てきた。
「優子ちゃんがいません」
「やはり」
 階下に豊雄と武一郎が集まってきた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日