憑依

145
前の点滴をはずすと、そこに新しいものを吊るし、針の覆いをとった。針はどういう加減か、はじめの五センチぐらいはまっすぐで、そのあとは自由に曲げられるような材質で作られており、それが信じられないほど長かった。
平輔は身をよじって逃げようとしたが、少しも位置を変えることはできなかった。女が優しく左腕を握り、針を刺した。異様に痛かった。心理的なものかと思ったが、そうでもなさそうだった。女は無造作に刺したのだ。そして、いつまでも体の奥に針を送りこんでいった。平輔はいつ終わるとも知れぬ地獄の苦しみのほんの入り口に足を踏み入れたのであった。
数日後、上質な木材を使ったドアが、小気味のいい音を立てて、内側にひらいた。平輔の長男が様子を見に来たのだ。
「あ、どうもお世話になります。父の様子はどうですか?」
苦労を知らずに育ち、おっとりとした口ぶりであった。看護師は目を細め、愛想よく返事をした。
「点滴も予定どおりで、ご容態はとても落ち着いていますわ」
息子は点滴台に目をやった。薄い色を帯びた透きとおった液体が、新しいプラスチックの管を伝って、平輔の左腕の血管へゆっくり注入されている。彼は平輔にそっと近寄った。
「親父、おれの言うことわかるかい? なにかしてほしいことがあるかい?」
身動きもできず、表情を変えることもできない平輔の目だけが、なにかの感情を表出しているようにも思えた。不安そうな、怯えているような、濁った眼である。彼は父親のこのような姿を正視することに耐えがたさを覚え、看護師のほうを向いた。彼女は両手を腰の前で組み合わせて、優しく微笑していた。
「親父、おれのことがわからないみたいだな。こいつ、誰だろうって顔して、怯えた目でおれを見ているような気がするよ」
「そんなことありませんわ。意思表示はおできになりませんが、息子さんだと、ちゃんとわかっていらっしゃいますよ。いろいろなことをおっしゃりたいのだと思いますが、まだお話しするのが無理なので、もどかしいんでしょうね」
「そうかもしれないな」彼は言った。「それにしても、あなたがいてくれたので、本当に助かりましたよ。きっと親父が目を覚ましたのは、あなたの手厚い看病のおかげでしょうね」
「そんなことはありませんけど、なんとかして、お父さまの意識をもどしてあげたいとは祈っていました」
看護師はそう言うと、心からうれしいという顔つきで満面に笑みを湛えた。
彼はしばらく父親の様子を見守ると満足そうな表情で看護師に背を向け、ドアノブに手をかけた。
平輔はあらゆる手段で息子に状況を伝えようと必死に努力していた。しかし、現在の彼が所持している手段は最高度に限定されていた。目の動きで伝えられないものかと思ったが、伝わるどころか、息子の退出を早めるだけだった。これほどまで薄情なものだとは予想していなかったが、長男だけでなく、家族の者どもはごくまれにしかこの部屋にやってこない。来ても、その滞在時間は極めて短い。すっかり看護師を信頼し、また、看護師に能(あと)う限りの世話を任せている。心の中で、「看護師とふたりきりにしないでくれ。即刻、この女を首にしてくれ」と叫んだが、息子は部屋から出ていってしまった。このあと、わたしの心の中を読み取れるこの女は、わたしがたった今、心の中で言ったことについて、厳しく問いただし、お仕置きをするのだ。もちろん、わたしがこのような「振る舞い」をしなくても、わたしの過去の行為を断罪し、お仕置きする。今日は、口を無理矢理こじあけられて、赤く焼けた鉛を流しこまれるのか、それとも、寝間着をはぎ取られて、全身を紙やすりで延々とこすられるのか、考えただけで、息が詰まりそうだ。いっそ、息が詰まって死んでしまいたい。しかし、わたしの体は、全身を熱湯でやけどさせられても、刃物で切り刻まれても、決して死ぬことはない。だから、何度も何度も地獄の責め苦を味わわなければならない。この、本当に、苦しくて痛すぎるお仕置きはいったいいつまで続くのだろうか。あの女は、自分の味わった苦しみと対価になった時点で、わたしを解放してくれるのだろうか。しかし、いくらなんでも、ここまでの苦しみを味わったとは到底思えない。わたしは本当に済まないと思っている。お願いだから、もうこのへんで許してほしい。いや、どうか許してくださいませ……。
平輔は身をよじって逃げようとしたが、少しも位置を変えることはできなかった。女が優しく左腕を握り、針を刺した。異様に痛かった。心理的なものかと思ったが、そうでもなさそうだった。女は無造作に刺したのだ。そして、いつまでも体の奥に針を送りこんでいった。平輔はいつ終わるとも知れぬ地獄の苦しみのほんの入り口に足を踏み入れたのであった。
数日後、上質な木材を使ったドアが、小気味のいい音を立てて、内側にひらいた。平輔の長男が様子を見に来たのだ。
「あ、どうもお世話になります。父の様子はどうですか?」
苦労を知らずに育ち、おっとりとした口ぶりであった。看護師は目を細め、愛想よく返事をした。
「点滴も予定どおりで、ご容態はとても落ち着いていますわ」
息子は点滴台に目をやった。薄い色を帯びた透きとおった液体が、新しいプラスチックの管を伝って、平輔の左腕の血管へゆっくり注入されている。彼は平輔にそっと近寄った。
「親父、おれの言うことわかるかい? なにかしてほしいことがあるかい?」
身動きもできず、表情を変えることもできない平輔の目だけが、なにかの感情を表出しているようにも思えた。不安そうな、怯えているような、濁った眼である。彼は父親のこのような姿を正視することに耐えがたさを覚え、看護師のほうを向いた。彼女は両手を腰の前で組み合わせて、優しく微笑していた。
「親父、おれのことがわからないみたいだな。こいつ、誰だろうって顔して、怯えた目でおれを見ているような気がするよ」
「そんなことありませんわ。意思表示はおできになりませんが、息子さんだと、ちゃんとわかっていらっしゃいますよ。いろいろなことをおっしゃりたいのだと思いますが、まだお話しするのが無理なので、もどかしいんでしょうね」
「そうかもしれないな」彼は言った。「それにしても、あなたがいてくれたので、本当に助かりましたよ。きっと親父が目を覚ましたのは、あなたの手厚い看病のおかげでしょうね」
「そんなことはありませんけど、なんとかして、お父さまの意識をもどしてあげたいとは祈っていました」
看護師はそう言うと、心からうれしいという顔つきで満面に笑みを湛えた。
彼はしばらく父親の様子を見守ると満足そうな表情で看護師に背を向け、ドアノブに手をかけた。
平輔はあらゆる手段で息子に状況を伝えようと必死に努力していた。しかし、現在の彼が所持している手段は最高度に限定されていた。目の動きで伝えられないものかと思ったが、伝わるどころか、息子の退出を早めるだけだった。これほどまで薄情なものだとは予想していなかったが、長男だけでなく、家族の者どもはごくまれにしかこの部屋にやってこない。来ても、その滞在時間は極めて短い。すっかり看護師を信頼し、また、看護師に能(あと)う限りの世話を任せている。心の中で、「看護師とふたりきりにしないでくれ。即刻、この女を首にしてくれ」と叫んだが、息子は部屋から出ていってしまった。このあと、わたしの心の中を読み取れるこの女は、わたしがたった今、心の中で言ったことについて、厳しく問いただし、お仕置きをするのだ。もちろん、わたしがこのような「振る舞い」をしなくても、わたしの過去の行為を断罪し、お仕置きする。今日は、口を無理矢理こじあけられて、赤く焼けた鉛を流しこまれるのか、それとも、寝間着をはぎ取られて、全身を紙やすりで延々とこすられるのか、考えただけで、息が詰まりそうだ。いっそ、息が詰まって死んでしまいたい。しかし、わたしの体は、全身を熱湯でやけどさせられても、刃物で切り刻まれても、決して死ぬことはない。だから、何度も何度も地獄の責め苦を味わわなければならない。この、本当に、苦しくて痛すぎるお仕置きはいったいいつまで続くのだろうか。あの女は、自分の味わった苦しみと対価になった時点で、わたしを解放してくれるのだろうか。しかし、いくらなんでも、ここまでの苦しみを味わったとは到底思えない。わたしは本当に済まないと思っている。お願いだから、もうこのへんで許してほしい。いや、どうか許してくださいませ……。
完