憑依

花
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 平輔が目覚めたのは自室のベッドの上だった。目に映るものは深山(しんざん)の霞だった。そばでなにかがコトコト音を立てていた。目蓋(まぶた)が重くてよく動かない。力を入れるとぴくぴくした。しばらくそうしていると、優しい声で話しかけられた。
「目が覚めましたか」
 そう言っていると理解するのに信じられないほどの時間がかかった。平輔は応答しなければと思って、うなずこうとするが、首はほとんど動かない。声を出そうとしたが、ひゅー、と弱い息が漏れるだけだった。しかし、そのときには視界が格段に鮮明になっていた。はっきりものが見えると同時に、彼は戦慄を味わうのだった。自分の目をのぞきこみ、声をかけていたのは、あの夢の中の女だった。女が白衣を着て、看護師になりすましていると思った。さっきからしていたコトコトという音は、ステンレスの盆の上に医療器具をそろえる音だった。
 平輔は思い出した。この女は自分が若くて放埒(ほうらつ)な生活を送っていたころ、不幸のどん底に突き落とした、由緒ある娘だ。その姉と自分は結婚し、苦しませてきたが、病気で死んだあとは、この妹に無茶をしかけ、破滅させたのだ。その女がなぜかそのときのままの若さで自分の目の前に立って、自分の目を深々とのぞきこんでいる。平輔の心は恐怖で満たされた。
 女をなだめようとして、彼は、なりふり構わず謝罪した。弁解の言葉を発し、頭をさげ、手を合わせた。しかし、口も体も彼の意のままにはならなかった。頭ははっきりしていたが、肉体は死者のそれとほとんど変わらないように思えた。
「やっとあなたに会うことができて、どんなにうれしいことでしょう」
 女の声は平輔にはっきり理解できたが、彼が自分の考えを伝えることはできなかった。
「あなたには、わたしの家がどれほどお世話になったことか、こうして思い返してみると、感無量で、なにも申し上げることができないほどです」
 女は微笑んだが、目に含んだ怒りは隠さなかった。
「あなたは、不幸にも、地震で逃げようとしたとき、慌てて階段を降りようとして、最上段から転落し、脊髄を損傷してしまいました。意識不明のまま病院で二週間、医者が手を尽くし、どうにか一命をとりとめましたが、もう体を動かすことも、話をすることも、難しいのではないかと先生が仰っていました。幸いわたしが看護師としてこのお屋敷にご奉公させていただいていたので、『ご自分の寝室で看護を受けるほうが、本人も気が楽だろう』と先生も仰り、こうしてわたしがお世話をさせていただいているのです。ご家族の方々も、時々様子を見にいらっしゃいますので、ご安心ください。では、点滴を交換しますね。かなり長くかかりますけど、ご辛抱ください」
 女は紙製の箱から新しい点滴を出した。平輔は我が目を疑った。透明のビニール袋には、血液や体液で満たされた中に、すっかり形が失われて判別できなくなった、なにかの生物の臓器のような物がとろとろに溶けて入っていた。小さな眼球も見えた。平輔はのけぞり、絶叫したつもりだったが、体位に変化はなく、ひゅーと息が漏れるだけだった。
「では、左腕のところから、ずっと、胸のほうまで、針を刺していきますね」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日