豹陣
-中里探偵事務所-

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場面19
Kは、その視線に出会ったとき、自分の一身上のいくつかの運命がすでにこの視線によって決定されてしまったような気がした。――カフカ
『城』
(たしか、中里探偵事務所だったよな?)
関はあたりを見回したあと、いかんと思った。あやしく思われないように、落ちついたそぶりをしようと思ったのに、もう慌てているのである。
「あをやぎ」という和風の店が見えた。
(何屋だろうか?)
「あをやぎ」という瀟洒(しょうしゃ)な筆文字の右上方に、「天麩羅」と粋(いき)な書体で書かれているのに気づいた。
(ああ、天麩羅屋か。こんな店で食べてみたいなあ。でも高いだろうなあ)
午前十時だった。関の腹が急に鳴りだした。朝食をほとんど摂(と)らなかったのだ。
店の前を通りすぎようとすると、階段が目に入った。と同時に、「中里探偵事務所」という表示にも気づいた。
(なんだ、このビルだったのか)
関は回れ右し、階段に進む前に、大きく深呼吸した。
コンクリートの階段が清潔に保たれていた。その一段一段をゆっくりのぼった。なぜか子どものころを思いだした。仲のよい友達が団地に住んでいて、毎日のように遊びにいった。
(ああ、あのころはこの世につらいことはなにもなくて、幸せだったなあ)
佐久間洋子に、PHVの試乗をした方が会いたがっている、という話をきいたときから、妙な胸騒ぎがしていた。
(PHVを買う気になったのだろうか? いや、違うな。あのことだろうな。なにか見落としていたことがあったかな?)
関は関なりに、いろいろな場合を想定していた。それ相応の覚悟も決めてきた。
彼は、黒い皮の鞄をひらき、内ポケットを指先でさぐり、ナイフの柄を握ってみた。握っているうちに、体の内側が熱くなり、自分がどんどん自分でなくなるような気がしてくる。
階段を上がりきると、明朝体のプレートが「中里探偵事務所」であることを教えていた。シックな色調のドアに、来客を知らせるボタンが付いている。押すとカメラが作動し、スピーカーから若い女性の声が流れてきた。
「はい。中里探偵事務所ですが、どちら様でしょうか」
(ほかにもスタッフがいたのか)
一瞬、なにもいわずに帰りたくなったが、むろん、そんなことはできない。冷や汗をかきながら関は、マイクとおぼしき穴に口を近づけていった。
「トヨタ自動車足利店の関でございます。守様にお目にかかるお約束をしているのですが」
「はい、関様ですね。中里が先ほどからお待ちしております」
女の声は、明るく澄んでいて、とても好感が持てるものだった。
カチャッと音がして、
「いま、ロックを外しましたので、中にお入りください」
とスピーカーが響いた。
ドアノブを回して引くと、ドアが軽々とひらいた。