豹陣
-中里探偵事務所-
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場面18
ジョン・レノンは、自らが作った『ビューティフル・ボーイ』の中で、「人生とは他の計画を忙しく立てている間に起こってしまうことである」と歌う。――茂木健一郎
『疾走する精神』
捜査本部の中で、刑事たちが顔をつきあわせて、懸案事項について話しあっていた。
高柳警部補は、コーヒーをすすりながら、皆川の説明を聞いている。
「その私立探偵は、現段階では証拠がないから、裁判で有罪に持っていくのは難しいと考えています。しかし、偽名を使っている点からいっても、タイヤを処分するのがあまりにもタイミングよすぎる点からいっても、追及する余地はじゅうぶんあると思われます」
高柳は、コーヒーをまた一口すすった。私立探偵とはだれのことかきこうと思ったが、なぜかききそびれてしまった。妙な予感がしたのだ。今朝ほどから亜沙子の顔が浮かないのが、なにか関係があるような気がして、胸騒ぎすら覚えた。
「だけど、証拠が出てこなかったらどうするんだい」
皆川の口調が熱を帯びる。
「警部補、調べてみれば、きっとなにかでてきますよ。でなければ、自白させます。お願いします。やらせてください」
高柳は、なんとなく田部井巡査部長のほうをみた。今日も女子校の教師のような佇(たたず)まいで、すらりと立っているが、なんとなく落ち着かないようすにみえる。
「関と宮原とのあいだに、なにか接点があることがはっきりすれば、証拠になるんですけどね」
と、亜沙子は乾いた声でいった。
「着信履歴はなかったんですか」
皆川は山脇繁紀(しげのり)巡査長にきいた。
山脇はコンピュータによる情報収集を得意としている。前頭部がかなり薄くなってきているうえに、眼鏡をかけているので、どうみても五十代前半にみえるが、まだ四十代前半なのであった。
「少なくとも関からの着信は残っていません」
山脇は眼鏡を指で上にあげた。
「しかし、プリペイド型の携帯電話や公衆電話からの通話記録は頻繁にありましたから、このどれかが関からのものである可能性はあります」
「警部補、ここを追及しましょう」
「ちょっと弱くないか」
高柳には、関のきわめてグレーな部分を、長時間責めつづけ、自供を引きだしたいという皆川の気持ちが痛いほどよくわかった。
関はたしかになにか関係があるに違いない。高柳の刑事の勘もそう告げていた。しかし、いまの状況で強引に自供を引きだすのはまずい。ひと昔前なら自分もそうしたかもしれないが、いまはそういうふうには落とさない。それに、上司からもつねづね釘を刺されているのだった。
「もう少しなにかほしいな。私立探偵が協力してくれるというなら、してもらおうじゃないか」
高柳にはこの私立探偵がだれか、いまはっきりわかった。いままでも、亜沙子にたびたびアドバイスし、彼女にたくさんの手柄を立てさせてきた人物のはずだ。警察としてのメンツは立たないが、亜沙子の夫がだす知恵に頼るほうが、皆川の腕力に頼るよりも、ずっとましに思われた。
「しかし、それだと警察としての立場がなくなりますよ」
と、皆川が痛いところをついてきたが、高柳としては次のようにいうほかなかった。
「アドバイザーに協力してもらうぐらいで立場がなくなったりはしないよ。それに、そんなこと気にするよりも、強引な方法を使わず事件解決に近づくほうがずっと大事だしね」
「はあ」
皆川は露骨に不服そうな顔をした。
亜沙子は複雑な心境だった。証拠もなく強引な取り調べをすることが避けられたのはよかった。しかし、殺人事件の容疑者に対して危険な駆け引きを試みるという譲の提案が正式に採用されてしまったことは、いいようもない不安を彼女に与えた。