烏賊がな
-中里探偵事務所-

探偵
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場面27

マテ貝は、砂浜の小さな穴のなかにいる。塩をたらすと、とび出してくる。それをつかまえるのである。この時の面白さは、いまでもおぼえている。
星新一
『祖父・小金井良精の記』

 ダークグレーのインプレッサWRXのボディーに冬の日射しが照りつけた。ボンネットの照り返しに目を細めながら、皆川は前の車のバンパーぎりぎりまでインプレッサを前進させた。ハンドルを左に切りながらゆっくりバックして駐車スペースに収めた。JR足利駅前の駐車場だった。今日は仕事にもどらなければならないから飲むわけにはいかなかったのだ。
 皆川はカバンを脇に抱えて、伊勢宮通まで歩いた。鮨屋のような店構えの「あをやぎ」の玄関前に長蛇の列ができていた。皆川は列の最後尾で足をとめた。
(昼時はいつもこんなに込んでいるのだろうか?)
 若いカップルが目立った。どのカップルも仲むつまじく話しこんでいる。皆川はむっつりと突っ立っていた。また、出直してくるかとおもったころ、格子戸をカラカラ開けて、簡単な和装の店員がでてきた。バインダーにはさんだ紙に、先頭のカップルからきいたことを書きとめている。
「佐藤様ですね。あと五分ほどでご案内できるとおもいますので、もう少々お待ちください」
 店員は次の三人組の横まで歩く途中で、最後尾の皆川に気づいた。
「皆川」刑事といおうとしたが、いったんとめた。「……さん」
「優果さん」
 優果は三人組の横を通りすぎて皆川のところまできた。
「どうなさったんですか。マスターにご用ですか」
「いや、お忙しいみたいですから、出直してきますよ」
「応接室で少しお待ちいただければ、手があいたときにお話ができるとおもいます。こちらへどうぞ」
「忙しいところ、悪いね、優果さん」
 天麩羅のいい香りをかぎながら、皆川は二階に通され、ソファに腰かけた。テーブルにはシクラメンが咲いていた。
 しばらくすると、戸を開いて見知らぬ店員が茶を運んできた。
「いま天丼を用意しておりますので、しばらくお待ちください」
「いや、僕は頼んでないよ」
「マスターからの差し入れだそうです」
 店員は皆川がなにかいっているのにかまわず部屋をでていった。皆川の腹が音を立てた。天丼がむしょうに食べたくなってきてしまった。
 しばらくすると優果が盆を両手に抱えて入ってきた。優雅な仕草でテーブルに並べる。化粧品のいい香りがする。
「優果さん、さっきの店員さんは新入り?」
「ええ、そうなんですよ」優果の微笑みが華やかであった。「マスターが以前いた料亭の主人が見つけてくれたそうなんです。田中さんというんです。東京の料亭で修行していたんですけど、うちのマスターのところで修行すれば同じことだといって説得してくださったそうなんです」
「譲さんって、そんなにすごい人だったの」
「そうみたいですよ」優果はにこやかに茶を足し、戸をあけた。「それじゃ、皆川刑事、ごゆっくりしてください。少ししたらマスターがくるそうです」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 烏賊がな-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2017年9月