烏賊がな
-中里探偵事務所-

探偵
prev

75

「……そういえば、こういうことがあったんだよ」
 譲は、オールドマーケットで購入した本のことを話した。
 明貞は黙って聞いていた。聞きながらお重を箸で突っつき、ビールを減らした。
「その本は、今あるのか」
 譲は、あると返事をすると、立ち上がって、リビングから出て行った。
 亜沙子が切り口のつやつや光るメロンを持ってきた。
 亜沙子と明貞がメロンをスプーンでしゃくっていると、譲が分厚い古びた本を持って現れた。
「これだよ」と言って譲は明貞に渡した。
 『田山花袋の日本一周』という東洋書院が刊行した本だった。
 譲は明貞に京都についての見聞が書かれているページを見せた。

 それから、夏の鴨川(かもがは)納凉(のなふりやう)が一寸面白い。舞子(まひこ)などをつれて、そこに出かけて行くと變つた感じが味はれる。晝間(ひるま)見ると、何んだこんなところですず凉みをするのかと思はれるやうなところだが、夜になると、中々趣(おもむき)に富でゐる。電氣(でんき)がキラ\/する。灯がチラ\/と川に映つて流れる。凉臺(すずみだい)に腰をかけて、足を水にひた浸して、空を見てゐる感じなどは東京(とうきやう)では一寸味はれないものだ。

「店でこの本を手に取ったとき、たまたまこのページが開いたから、客を装って読んでいたら、この箇所の何かが気になってね。潜在意識ではわかっているけど、顕在化しないという気がするんだよ。どうだい、何か気づいたことはあるかい?」
 譲はメロンを咀嚼しながら、そのページに目を落としていた。
「俺も一度でいいから舞妓さんと鴨川で納涼がしたい」
「元舞妓とでもいいなら頼んでやろうか」
「元舞妓に知り合いがいるのか」
「ああ、俺の母が昔舞妓だったんだよ」
「ユズのお袋さんと鴨川で納涼をしたら、くつろげないだろ」
「とにかくそんなことしか考えないところをみると、俺の疑問に対する答えは出なかったということだな」
「悪い。でも、借りていって、よく考えてみるよ」
「それは助かる。俺が考えているより、文学者に考えてもらう方がずっといいからな」
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 烏賊がな-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2017年9月