ツェねずみ
-中里探偵事務所-

探偵
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場面57

吾人ノ眠ル間、吾人ノ働ク間、吾人が行屎送尿の裡に、地球ハ回転シツツアルナリ。吾人ノ知ラヌ間ニ回転シツツアルアリ。運命ノ車ハ之ト共ニ回転シツツアルナリ。知ラザル者ハ危シ。知ル者ハ運命ヲ形クルヲ得ン
夏目漱石
『一九〇二年三月十八日付・日記』

 コメダ珈琲店のはす向かいにある派出所に兵庫県警のパトカーと軽自動車が駐まっていた。パトカーには、制服を着た男性警官と私服の男女、計三人が乗っていた。軽自動車は無人だった。
 そのパトカーの後部座席に乗っている亜沙子はスマホの画面を開いた。山脇からだった。二、三分の間、亜沙子が鋭い声と厳しい声を発しているのを、他の二人が固唾を呑んで見守っていた。通話を終えた亜沙子は、皆川に言った。
「9月6日午後2時頃、神戸市のサンマルクカフェ元町東店で、鴻上の仲間とオールドマーケットの店員が待ち合わせをしたみたい。すぐ調べなくちゃ」
「鴻上の仲間?」
「女よ」
「根本陽菜か」
「わからない。とにかく本部に知らせなきゃ」
 亜沙子は神戸警察署に詰めている伊藤巡査長に電話した。具体的な対処方法はすぐに決まった。制服警官と皆川がサンマルクカフェ元町東店に急行することになった。亜沙子は軽自動車で根本陽菜の車を追いかけることになった。サンマルクカフェの防犯カメラで録画されたデータを確認し、女が根本陽菜であることが判明した場合に、すぐに確保するためだ。
 軽自動車は神戸警察署所有のもので、私有車に見せかけるために借りたのだった。譲が考えたプランBに使う予定なのだが、亜沙子も皆川も、邪魔なだけでとても必要になるとは思えないと愚痴をこぼした。
「おっ、噂をすると何とやらだ」
 大きな木のドアを開けて、根本陽菜が出てきた。
「じゃあ、いってみるわ」
 亜沙子はパトカーの後部座席から降りて、軽自動車の運転席に乗り込み、ワイパーを動かした。
 亜沙子が車道に出たときには、もうパトカーはバイパスを走っていた。まだサイレンは鳴らしていなかった。根本陽菜を驚かせたくなかったのだ。少し離れたところまで行ったらサイレンを鳴らし、サンマルクカフェ元町東店付近でサイレンを切る予定なのだろうと、亜沙子は思いながら、陽菜の車の二台後ろについた。信号待ちをしていると、遠くでサイレンが鳴り出した。少し考え事をしていたので、一瞬皆川たちのパトカーとは思わなかった。スピード違反した車が追いかけられているのかと思った。そのぐらい他人事に聞こえるサイレンの音なので、根本陽菜の耳にも、遠く離れたところの出来事にしか感じられないだろうと、亜沙子は思った。信号が青に変わった。車をゆっくり発進させる。根本陽菜の目につかないようにしたかったのだ。陽菜の車との間にもう一台車が入った。信号が黄色になった。陽菜とその後ろの二台が交差点を抜けたところで赤になった。亜沙子の前の車は停まった。亜沙子もゆっくり停まった。もう陽菜の車に追いつけないかもしれない。しかし、亜沙子は慌てなかった。点滅しながらバイパスを進む陽菜の車がナビの画面に見えているからだ。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 ツェねずみ-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2019年3月