世界の街角から
(フランス編)
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再びパリへ③
私は今セーヌ川を上り下りする遊覧船に乗っている。そこから見る景色は絵になる。歴史的な建造物が建ち並ぶ一画あり、パリジャンヌが水着姿で寝そべる岸辺あり、水際に碇泊して酒食を提供するレストランあり……。これが現代のセーヌ川である。しかし、私にはなぜかもの足りない。だいたいセーヌ川の色はこんな色でいいのだろうか。私の思い描いたセーヌ川の色はもっと透明であった。きっと私が古いのだろう。昔のパリの方がよかったということは、すでに言い尽くされてきたのだから。ヴィクトル・ユゴーは『ノートル=ダム・ド・パリ』に、次のように書いている。
ところで、今日のパリからはもう得られそうにもない、昔のパリの印象を味わってみたいとお思いになるなら、大祭日の朝、たとえば復活祭とか聖霊降臨祭とかの日の夜明けに、全市をひと目で見わたせるような、どこか高いところに登って、暁の鐘声に耳をかたむけられることをおすすめする。
これは十九世紀に書かれたものである。昔に憧れ、目の前のパリに落胆している私は、ある意味ユゴーに似ているのだろう。私と同じように、遠い未来の人は、私の嘆いたパリの景色を懐かしがるのだろうか。そう思うと、今のパリはやはりよい街なのだという気がしてくる。それでも、次に紹介する、ユゴーが描写した、幾千もの教会が一斉に鐘を鳴り響かせる情景は、永久に復活することはないであろう。
空からの合図で――太陽が顔を出すのがその合図だが――、パリじゅうの無数の教会が、鳴りはじめる鐘の音にいっせいに身震いするのをごらんになるがよい。はじめは、演奏家たちが合奏をはじめるとき少しばかり弾いて打ち合わせをするのと同じように、一つの教会からもう一つの教会へと間遠に鐘の音が伝わっていく。だがとつぜん、見給え。あらゆる鐘楼からいっせいに音の柱か、ハーモニーの煙みたいなものが立ちのぼるのが見える。まったく、ときによっては耳にも物が見えるものなのである。一つひとつの鐘の音ははじめのうち、まっすぐに、ほかのものとまじり合わず、いわばただひとりで、素晴らしい朝空に向かって昇っていく。やがて、一つひとつがだんだん太くなって、たがいに溶け合い、まじり合い、入り組み合い、ついに渾然としたみごとな合奏となる。こうなるともう、無数の鐘楼から絶えまなく流れ出る、いんいんたる音響の一つの塊りというほかはない。この塊りはパリの頭上で漂い、波立ち、とびはね、渦を巻き、地平の遥かかなたまで、耳をろうする振動の輪を広げていく。しかもこのハーモニーの大海は少しもにごったり乱れたりはしていない。とても大きくて深いにもかかわらず、あくまで透きとおっているのだ。
2014年のパリの話はこれでおしまいです。その後テロが起きて、フランスの状況はさらに変化しているのかもしれない。
完