芥川

芥川
prev

1

年ふればよはひは老ひぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし

 糺(ただす)の森は今日も静かだった。今日だけではない。いつ来ても静かだ。聞こえるのは、風の音と鳥の鳴き声だけである。都ができる前から、このように静かだったのだろう。そして、都がいつか人々から打ち捨てられることになっても、この森は、今日のように静かなのであろう。
 鶯が鳴いた。梢から梢へ飛び移る。梢のすぐ上に太陽があるため、その姿を探すのは難しい。
「貫之様でございますか」
 鶯に声を掛けられたような気がして振り向くと、自分と同世代ぐらいの女が、よい姿勢で立っていた。見覚えはない。
「そうですが、あなたはどなたですか」
「伊勢と呼ばれております。本日は、忠平様の使者として参りました」
 女の袿(うちき)からよい香りがした。
 貫之には不思議だった。もちろん、伊勢という名は知っていた。しかし、貫之の記憶ではたしか、伊勢は忠平の兄の仲平の恋人だったはずだ。それがどうして忠平の使者としてやって来たのだろうか?
「忠平様は、この道を抜けたところで、先ほどからお待ちでございます。どうぞ、私のあとを付いてきてくださいませ」
 高い木々の下に、人が一人、やっと通り抜けられるほどの小道があった。貫之は、少し不安を覚えたが、とにかく行ってみるしかないと思った。
 繁みが切れると、割と広い場所に出た。
「こちらでございます」
 大きな楠(くすのき)の向こうに回ると、華麗な牛車があった。材質が極上であるし、色や模様なども斬新であった。しかも、それでいて、けばけばしいという感じを起こさせなかった。むしろ、由緒正しさを感じさせた。
 しかし、それにしても、女と自分と二人しかいないような静かさだった。随身が四、五人はいてもいいはずであった。肝心の忠平もいないのではないかと思い、妙な胸苦しさを感じていると、牛車の中から声がした。
「お入りください」
 どうやらこれが忠平の声のようであった。意外に思った。藤原北家の子息だから、もっと威張りくさっているものかと思っていたら、なんだかとても気さくな感じで、親しみが持てそうな気さえする。
 女が御簾を上げて、中に通した。奥から声がする。
「貫之様ですか。急にこんなところへお呼び立てして申し訳ありません。何しろ、少し込み入った事情があったものですから……あっ、申し遅れました。私は、藤原忠平です。あなた様のご高名はかねがね伺っております。とにかく今後ともどうかよろしくお願いいたします」
 話し方も態度も丁重で、摂関家の御曹司とはまったく思えない。
 もちろん貫之は、権門家に対する礼を崩すことなく、挨拶を返した。
 世間話を二、三交わすと、早速忠平は本題に入った。
「実は見てほしいものがあるのです」
 貫之は、ある程度予測していた展開になってきたようだと思った。
 貫之は和歌の大家として知られていたから、かなりの身分の人からも、こっそり頼まれることがよくあるのであった。つまり、歌集の中に自分の歌を入れてもらえないだろうかという懇願である。あるいは、自分の代わりに歌を作ってもらえないかという哀願である。歌集の中に入れてくれという頼みは、全部承知することはできなかったが、代作に関しては、余程のことがない限り、引き受けていた。
 今回はどうやら歌集に入れてほしいという方の依頼のようだった。
 忠平は伊勢に御簾を上げさせた。車の中に日が差し込んだ。かなり古い紙の束が大量にあった。その一枚を忠平は手に取った。見ると歌が書いてある。

年ふればよはひは老ひぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし

「これは?」
「これは、おじいさまの歌です」
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日