芥川

芥川
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 檜の葉陰から日が差すと、伊勢の顔は明るくなった。
 杉の木の方から明るい声が聞こえてきた。
「こちらですよ」
 忠平が直衣(のうし)の片袖を上げて、手を振っていた。
 これで取るべき進路はわかった。伊勢が動いた。貫之も動いた。土塀を回りこむと、忠平が門に消えていくところだった。二人が門の前に立ち止まり、中を窺っていると、女の童(めのわらわ)が出てきた。その案内で中門廊(ちゅうもんろう)を奥へ進む。近くを遣水(やりみず)が気持ちよく流れる。その向こうには紅梅がゆらゆら揺れている。
 東対(ひがしのたい)の簀子(すのこ)に忠平が立っていた。
「どうぞ、こちらがあなたの仕事場です」
 女の童が御簾を上げると、忠平は廂(ひさし)の中に入った。貫之が中に入ると、奥にいる女房が御簾を上げていた。忠平はもういない。二人は御簾をくぐる。
「こちらです」
 奥の襖障子(ふすましょうじ)が開いていて、どうやら忠平はその中のことを言っているようであった。
 貫之はためらった。
「まさか母屋(もや)を仕事場にするわけには参りますまい」
「いや、いや、かまいませんよ。少しでも広い方がやりやすいでしょうからね」
「いや、いや、結構ですよ。広廂(ひろびさし)の隅でもお借りできれば、それで十分です」
 貫之がそう言い掛けたときには、すでに忠平は妻戸(つまど)から塗籠(ぬりごめ)に抜けていた。
 貫之と伊勢が追い付いたとき、忠平は手に草子を持っていた。
「それは何でございましょうか」
 畳を二枚並べた真ん中に文机があった。忠平は腰を下ろし、文机の上に冊子を置いた。
「まあ、二人とも腰を下ろしてください」
 清潔で気持ちのよい畳だった。藺草(いぐさ)の香りがさわやかであった。
「これは祖父の日記です。これを読めば、例の女性の身元はわかるはずです」
 貫之は肩すかしを食わされた感じがした。
「しかし、それでしたら、何も私にお見せになるまでもなく、すぐにでも解決することではないでしょうか」
「いや、いや、それが意外と手強いのです。この日記の中には、多くの和歌が詠み込まれていて、その解釈が手間取るのです。もっとはっきり言いますと、私には完全にお手上げです。やはり和歌の専門家に御指南いただかなければ、歯が立ちません。それにこの日記がなかなか膨大でして」
 忠平は立ち上がると、自ら唐櫃(からびつ)から一抱えの冊子を持ってきた。
「これはまた、ずいぶんとありますね」
「何をおっしゃいます。こんなのはほんの一部ですよ。東三条殿(ひがしさんじょうどの)には、この何倍もあります。とりあえずやっとこれだけ運ばせたのです。何しろ、あなたに断られてしまったら、また東三条殿に戻してもらうことになり、従者たちに気の毒ですからね」
 貫之は板の間に座っている伊勢を見た。「和歌の上手でしたら、こちらにもいらっしゃるではありませんか」
 伊勢は顔を赤くして、うつむいた。
 貫之は照れているのだと思った。
「いや、お世辞で言っているのではありませんよ」
 伊勢はますます赤くなった。
「貫之様、そんなにいじめたら伊勢がかわいそうではありませんか。伊勢は女なのですから」
 忠平は、冊子を開いて貫之に手渡した。一目で理由がわかった。いや、見なくても気づくべきであった。良房の日記は、当然のことながら、漢文で書かれていたのである。伊勢に恥をかかせてしまった。まったくうかつであった。和歌がたくさん書かれているというので、それにつられてしまったのだろう。これでおそらく伊勢の信頼を失ったであろう。こうやって一人、また一人と信頼を失っていくのである。一方の忠平の方は、年はまだかなり若いが、そういった点では自分よりずっと長けているらしかった。それは、これまでの口の利き方、心の用い方を見れば、十分わかる。学問や和歌に関しては、もしかしたら自分は忠平の上かもしれないが、実際的なことでは、まったく勝負にならぬ。やはり、摂関家の御曹司だ。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日