芥川

芥川
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 衣服の擦れ合う音が高くなり、梅の香が漂った。伊勢も外へ移動しようとしているのだった。貫之も外へ出ないと格好がつかない形勢になった。貫之は振り返って、御簾を上げようとした。先に御簾の外に出た伊勢がそれに気づき、御簾を上げてくれた。貫之が楠の向こうに回ると、もう忠平は茂みの向こうに半分姿を隠していた。伊勢はその忠平を早足で追いかけた。貫之も伊勢に遅れないようについてゆく。
 鶯が枝から枝へ移り、葉が動揺する。先ほど貫之がここへ来たとき、高い木々の梢にあった太陽は、今は中ほどに位置していた。伊勢が右へ左へ折れるたびに、木漏れ日が目を射て、貫之は目をしかめた。
 貫之は早足で歩きながら考えた。
(忠平様は、私を別邸に連れて行こうとしている。ということは、私が何も言わないから、依頼を引き受けたと受け取っているのだろう。実際は、依頼を受けるべきか、断るべきか、それを決めるために、もう少し判断材料を忠平様から引き出そうとしていただけだったのだ。しかし、ろくに引き出せないうちに、忠平様は次の段階に進もうとしている。現段階では、まだ私には、これが、和歌に関係のあることなのかどうかさえ、まったくわかっていない。……いや、ほとんど関係はないのだろう。……で、あるならば、その時点で、歌に関係のない話には力になれそうもないと言って、断ってしまえばよかったではないか。なぜ、そうしなかったのか? わかっている。要するに、私というものは、人の頼みをきっぱり断れないたちの人間なのだ。まあ、しかし、それも仕方あるまい。摂関家の御曹司の頼みを言下に断りでもして、家運に影が射したら困るしな。……しかし、それにしても、……和歌に関することなら、私の力量の及ぶ限りは、いくらでも力になれるが、遠い昔の女性を探す仕事なんて、私にできるはずがない。だいたい、私は、そんな暇な人間ではない。そりゃあ、忠平様からすれば、私の仕事など、仕事のうちにも入らないだろう。帝から任命された階級は、ほんのささやかなものである。それでも、必要な仕事であることには変わりないはずである。もちろん、こんなものが、私のする仕事なのだろうかと、寂しい気持ちにとらわれたことも、一度や二度ではない。しかし、毎日取り組んでいるうちに、それも変わってきた。自分なりに創意工夫するうちに、自分の仕事になってきた。そうして、いったん自分の仕事になると、人には易々と任せられなくなるものである。自分の関わる範囲も少しずつ広がっていった。そのうちに、朝から晩まで仕事しても、間に合わなくなってきた。和歌の関係で、しなければならないこともあるから、時間がいくらあっても足りないのである。そんな状況で、忠平様からの仕事を安請け合いしたら、ますます自分の首を絞めるだけである。やはり、断……)
 貫之は下ばかり見ていたから、伊勢がふいに立ち止まったのに気付かなかった。
「きゃあ」
 貫之の胸に伊勢の背中が当たった。一瞬、貫之の口と鼻は伊勢の髪に埋もれた。しかし、二人ともすぐに身を引いたので、貫之の鼻の奥に伊勢の髪の匂いだけが残った。
「申し訳ありません」
 と、貫之は頭を下げた。
「いえ、私こそ急に立ち止まったりして、失礼いたしました」
 貫之が頭を上げると、まだ頭を下げている伊勢の向こうに、瀟洒な造りの建物の屋根が見えた。こちらの方が小高くなっているから、ところどころ、庭園の様子なども見える。建物の数はそれほど多くはないようだが、渡殿(わたどの)でつないだ対屋(たいのや)などもあり、庭園には築山(つきやま)や池、遣水(やりみず)などもあるようだ。
「ここが忠平様の別邸なのですね。見事なものですね」
「本当に見事ですね。私も目にするのは今日が初めてです」
 藪の中の小径が別れていて、塀の中に入るには、どう進めばいいのか、貫之には見当が付かなかった。
「それで、どちらに行けばよいのでしょうか」
「それがわからなくて、私も、つい立ち止まってしまったのです」
 急に日が隠れ、伊勢の顔が暗くなった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日