芥川

7
四足(よつあし)門が近づいてきた。いや、四足門などと呼べるような代物ではない。牛車がやっとどうにかくぐれるだけの門だ。地面の手入れが悪いからひどい揺れだ。
「いやあ、こらまたえらく立派なお車ですね」
従者がやけに大きな声を出す。
「どれ、どれ」
女どももやってくる。
どうしてうちの人間はそろいもそろって品性にいささかの問題がある奴ばかりなのだろうか。夕べの伊勢を思わずにはいられない。
廊に降り立つとかぎなれた白粉(おしろい)の匂いがした。
「あなた、驚きましたわ。忠平様にお歌をお教えになっただなんて」
「うむ」
貫之はちらと見て、すたすた歩いて行く。妻は出世とか鼻が高いの低いの、そんなことをずっとしゃべり続けている。
貫之はもっと上質の白粉の匂いを思い出した。
「それからこんなお手紙をお預かりしました」
上質な紙に包まれたものを妻が恭しく手渡した。
「今日お役所の長官に渡してほしいって」
貫之は茵(しとね)に尻を落とし、文机の上に紙を広げた。委嘱状だった。業務内容は東三条邸所有文書取調役だった。別の手ざわりのよい紙には、忠平の言葉で、昨日は打診で、本状が長官経由で主上に裁可されれば、正式に決定するとあった。期間は三ヶ月である。その間、職場を離れることになる。業務場所は東三条邸とあるだけで、別院のことは何も書かれていない。もう一度忠平の手紙を、今度は一字一字丹念に追っていった。あった。書類上はそういう形にしてあるが、作業場は別院で、資料が必要なときだけ東三条に行ってほしいとある。貫之は、なぜだかほっとした。そして、なぜほっとしたのかを考えた。すると、いろいろな感情がどっと流れ出してきたので、困った。こういうときの対処の仕方を貫之はすでに知っていた。対処の仕方というほど大げさなものではない。要するに、そのことについて考えるのをやめてしまうのだ。頭を切り替えて別のことを考える。それだけだ。胸があふれそうになるほどいっぱいになった感情は、少し時間を置けば、少しは鎮まる。そのときになって考えればすむことが、世の中には多いのだ。それにしても東三条邸所有文書取調役か。ずいぶんと大げさだな。女の正体を突き止めるだけなのに……。
「はっ」
貫之は思わず声を出した。
「どうしたんですか」
妻が不審そうに見た。
「いや、何でもない。今回のことは主上が前にもらしていた歌集と関係があるのかと思ったんだ」
「それというのはもしかすると勅撰集ということなのですか」
「いや、わからんよ。まだ、何も」
「すごいことではありませんか。万葉集以来ですね」
「何言ってる。あれは勅撰ではない」
「あら、そうなの」
「史的事実としてはな」
「では、あなたは我が国で最初の勅撰和歌集の撰者になるのね」
「おい、気が早いぞ。まだ、ほとんど何もわかってないんだ」
「でも、昨日はそういう話があったのでしょう」
「いや、東三条殿の書庫を整理してほしいと言われただけだ。実際、それだけで終わるかもしれんぞ」
「でも、摂関家の書庫を整理するだなんて、すごいことだわ。あなたの出世につながる絶好の機会じゃない」
「そんなことぐらいで出世なら、納言の定員が百あっても足りんよ」
「そんな頼りないことおっしゃらないで、ねえ、本当にこれは紀の家が再興する最後の機会かもしれないわ。忠平様はまだお若いけれども、噂ではとてもやり手のようよ。それにお兄様の時平様ともお話をする機会が訪れるでしょうし、道真様とだって……」
「何言ってるんだ。時平様と道真様は険悪だと言うぞ」
「いやあ、こらまたえらく立派なお車ですね」
従者がやけに大きな声を出す。
「どれ、どれ」
女どももやってくる。
どうしてうちの人間はそろいもそろって品性にいささかの問題がある奴ばかりなのだろうか。夕べの伊勢を思わずにはいられない。
廊に降り立つとかぎなれた白粉(おしろい)の匂いがした。
「あなた、驚きましたわ。忠平様にお歌をお教えになっただなんて」
「うむ」
貫之はちらと見て、すたすた歩いて行く。妻は出世とか鼻が高いの低いの、そんなことをずっとしゃべり続けている。
貫之はもっと上質の白粉の匂いを思い出した。
「それからこんなお手紙をお預かりしました」
上質な紙に包まれたものを妻が恭しく手渡した。
「今日お役所の長官に渡してほしいって」
貫之は茵(しとね)に尻を落とし、文机の上に紙を広げた。委嘱状だった。業務内容は東三条邸所有文書取調役だった。別の手ざわりのよい紙には、忠平の言葉で、昨日は打診で、本状が長官経由で主上に裁可されれば、正式に決定するとあった。期間は三ヶ月である。その間、職場を離れることになる。業務場所は東三条邸とあるだけで、別院のことは何も書かれていない。もう一度忠平の手紙を、今度は一字一字丹念に追っていった。あった。書類上はそういう形にしてあるが、作業場は別院で、資料が必要なときだけ東三条に行ってほしいとある。貫之は、なぜだかほっとした。そして、なぜほっとしたのかを考えた。すると、いろいろな感情がどっと流れ出してきたので、困った。こういうときの対処の仕方を貫之はすでに知っていた。対処の仕方というほど大げさなものではない。要するに、そのことについて考えるのをやめてしまうのだ。頭を切り替えて別のことを考える。それだけだ。胸があふれそうになるほどいっぱいになった感情は、少し時間を置けば、少しは鎮まる。そのときになって考えればすむことが、世の中には多いのだ。それにしても東三条邸所有文書取調役か。ずいぶんと大げさだな。女の正体を突き止めるだけなのに……。
「はっ」
貫之は思わず声を出した。
「どうしたんですか」
妻が不審そうに見た。
「いや、何でもない。今回のことは主上が前にもらしていた歌集と関係があるのかと思ったんだ」
「それというのはもしかすると勅撰集ということなのですか」
「いや、わからんよ。まだ、何も」
「すごいことではありませんか。万葉集以来ですね」
「何言ってる。あれは勅撰ではない」
「あら、そうなの」
「史的事実としてはな」
「では、あなたは我が国で最初の勅撰和歌集の撰者になるのね」
「おい、気が早いぞ。まだ、ほとんど何もわかってないんだ」
「でも、昨日はそういう話があったのでしょう」
「いや、東三条殿の書庫を整理してほしいと言われただけだ。実際、それだけで終わるかもしれんぞ」
「でも、摂関家の書庫を整理するだなんて、すごいことだわ。あなたの出世につながる絶好の機会じゃない」
「そんなことぐらいで出世なら、納言の定員が百あっても足りんよ」
「そんな頼りないことおっしゃらないで、ねえ、本当にこれは紀の家が再興する最後の機会かもしれないわ。忠平様はまだお若いけれども、噂ではとてもやり手のようよ。それにお兄様の時平様ともお話をする機会が訪れるでしょうし、道真様とだって……」
「何言ってるんだ。時平様と道真様は険悪だと言うぞ」