芥川

8
「ばさばさ」
「ぽちゃん」
「あら、何の音かしら」
「鯉でもはねたんだろ」
「鳥の羽ばたきも聞こえたわ」
「鳥がくわえていた虫を池に落としたんで、鯉が横取りしたんだろう」
「ふふっ。そんなところかもね」
風が吹き込んで几帳がばさばさ言った。急に妻が声を落とした。
「あなた、お二方の争いに巻き込まれないように注意してね」
「巻き込まれるも何も、まだ全然何も起こってないよ」
「だって険悪だって言ったじゃない?」
「馬鹿、俺とは全然関係ないところの話だって」
「そうなの」
簀子(すのこ)を歩いてくる者がいる。
「お車のご用意ができました」
「うむ。今行く」
ああ、忠平様の車とは全く違う我が家のおんぼろ牛車にガタガタ揺られて行くか。そう思って、貫之は立ち上がった。
そのとき、ふと思い付いて、
「おい、忠平様のところでは、これから三ヶ月間仕事をすることになるんだが、近所に言いふらす奴が出ないように、よく言い聞かせておけよ」
妻は貫之の言いたいことをすぐに了解した。
「それは言われなくてもそうするつもりでした。私もそのぐらいの心がけは持っていますわ。紀の家の女ですからね」
貫之はばつの悪そうな顔をした。
「いや、悪い。一応、念のためな。幸運なときは気をつけなければならない。いい気になって、おごり高ぶって、足をすくわれる者が多いからな」
「あなたは大丈夫ですよ。女の人に誘われることもないでしょうし」
妻は袖で口もとを覆った。目を細くしている。いかにも楽しそうだ。
貫之はぎくっとしたが、他意はないみたいなので、ほっとした。
「まあ、足をすくわれないように、気を配るさ」
我ながら下手な答え方であった。しかし、妻は気に留めている様子もない。
車宿りに忠平様の牛車はなかった。その代わり自分のがあった。忠平様のとは大違いだ。乗り込むと何となく埃っぽい。
(これは、とても、伊勢を乗せて出掛けるなどは無理だな)
貫之は実際にそういう予定があって、そう思ったわけではなかったが、そういう予定とは別に、どうしてもそうせざるを得ない事態が、仮に生じたとしても、伊勢を乗せるのはできれば避けたいと思うほど、くたびれた牛車だった。
くたびれた牛車がみしみし言いながら動き出した。宮中までのいつも変わらぬ道中である。そうたいした距離でもないが、しかし、それなりに時間は要する。朝と夕とほぼ毎日二回、大路のでこぼこした道に揺られなければならない。その間、なんとも退屈なものである。しかし、揺れがひどくて読み物も書き物もできない。いや、できなくはないが、無理にそうすると気分が悪くなるので、二、三度やって、懲りた。かといって、寝てるわけにもいかない。車から転がり落ちたら事だ。まあ、足を楽にして、のんびり座っているのにしくはなし。
しかし、面白いもので、貫之は、少し経つと必ず考え事に没頭していた。仕事のことを考えていることが多かった。朝は、これから職場に到着したら、どういう順序に仕事を片付けていくかということを考える。夕は、これから家に到着したら、どういう順序に仕事を片付けていくかということを考える。結局は、朝も夕も同じことを考えていた。
そういえば、いつの間にか、職場でも家でも仕事をするようになってしまったな。貫之は思った。昼間は御書所(ごしょどころ)の業務に追われている。前任者が適当に書物を管理していたので、見るに見かねて、最初から分類し直して整理するうちに、それが面白くなり、没頭するようになったのだ。家では和歌の分類をしている。これも今まで系統立った分類を誰もしていなかったから、それが気になって、始めたのだった。
「ぽちゃん」
「あら、何の音かしら」
「鯉でもはねたんだろ」
「鳥の羽ばたきも聞こえたわ」
「鳥がくわえていた虫を池に落としたんで、鯉が横取りしたんだろう」
「ふふっ。そんなところかもね」
風が吹き込んで几帳がばさばさ言った。急に妻が声を落とした。
「あなた、お二方の争いに巻き込まれないように注意してね」
「巻き込まれるも何も、まだ全然何も起こってないよ」
「だって険悪だって言ったじゃない?」
「馬鹿、俺とは全然関係ないところの話だって」
「そうなの」
簀子(すのこ)を歩いてくる者がいる。
「お車のご用意ができました」
「うむ。今行く」
ああ、忠平様の車とは全く違う我が家のおんぼろ牛車にガタガタ揺られて行くか。そう思って、貫之は立ち上がった。
そのとき、ふと思い付いて、
「おい、忠平様のところでは、これから三ヶ月間仕事をすることになるんだが、近所に言いふらす奴が出ないように、よく言い聞かせておけよ」
妻は貫之の言いたいことをすぐに了解した。
「それは言われなくてもそうするつもりでした。私もそのぐらいの心がけは持っていますわ。紀の家の女ですからね」
貫之はばつの悪そうな顔をした。
「いや、悪い。一応、念のためな。幸運なときは気をつけなければならない。いい気になって、おごり高ぶって、足をすくわれる者が多いからな」
「あなたは大丈夫ですよ。女の人に誘われることもないでしょうし」
妻は袖で口もとを覆った。目を細くしている。いかにも楽しそうだ。
貫之はぎくっとしたが、他意はないみたいなので、ほっとした。
「まあ、足をすくわれないように、気を配るさ」
我ながら下手な答え方であった。しかし、妻は気に留めている様子もない。
車宿りに忠平様の牛車はなかった。その代わり自分のがあった。忠平様のとは大違いだ。乗り込むと何となく埃っぽい。
(これは、とても、伊勢を乗せて出掛けるなどは無理だな)
貫之は実際にそういう予定があって、そう思ったわけではなかったが、そういう予定とは別に、どうしてもそうせざるを得ない事態が、仮に生じたとしても、伊勢を乗せるのはできれば避けたいと思うほど、くたびれた牛車だった。
くたびれた牛車がみしみし言いながら動き出した。宮中までのいつも変わらぬ道中である。そうたいした距離でもないが、しかし、それなりに時間は要する。朝と夕とほぼ毎日二回、大路のでこぼこした道に揺られなければならない。その間、なんとも退屈なものである。しかし、揺れがひどくて読み物も書き物もできない。いや、できなくはないが、無理にそうすると気分が悪くなるので、二、三度やって、懲りた。かといって、寝てるわけにもいかない。車から転がり落ちたら事だ。まあ、足を楽にして、のんびり座っているのにしくはなし。
しかし、面白いもので、貫之は、少し経つと必ず考え事に没頭していた。仕事のことを考えていることが多かった。朝は、これから職場に到着したら、どういう順序に仕事を片付けていくかということを考える。夕は、これから家に到着したら、どういう順序に仕事を片付けていくかということを考える。結局は、朝も夕も同じことを考えていた。
そういえば、いつの間にか、職場でも家でも仕事をするようになってしまったな。貫之は思った。昼間は御書所(ごしょどころ)の業務に追われている。前任者が適当に書物を管理していたので、見るに見かねて、最初から分類し直して整理するうちに、それが面白くなり、没頭するようになったのだ。家では和歌の分類をしている。これも今まで系統立った分類を誰もしていなかったから、それが気になって、始めたのだった。