芥川

芥川
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 弱い陽ざしもほとんど感じられなくなり、いよいよ寒さが堪えがたくなってきた。
「冷えますね。火でも付けましょう」
 忠平は良房の手記がほぼ了解できたと思ったら、急に表情に余裕が出たようだ。それで寒さにも気が付き、自分で火を付けようとするゆとりも出てきたのだろう。
「これは気が付きませんで」
 貫之が動こうとしたころには、忠平は器用に火をおこしていた。
「私はこういうことをするのが好きなもので。女房などはとても雑なので、だいたい私がやっています」
 たしかに忠平の所作は一つ一つ丹念で美しかった。火鉢と赤い炭が芸術品のように見える。
「結局、武士勢力を制御できるのは良房しかいなかったから、他氏が政権を取っても、いずれ政治が立ちゆかなくなるのです。そうすれば武士勢力を一手に掌握している良房に政権を戻さざるを得なくなるというわけです。」
 忠平はさらさらと言った。
「紀氏と惟喬親王の動きを良房は平気で見ていたのではないでしょうか。好きにしろと。お前たちにあの武士どもを使いこなせるのかと。武士どもが手に負えなくなったらお前たちが慌てふためく顔を俺は見て愉しむ。その日が来るのが待ち遠しい。良房のことだから、そんなふうに思っていたのでしょうか」
 忠平の言葉は貫之に刺さった。それは真実だと思った。貫之もそう思うのである。貫之だって惟喬親王が即位して紀氏の時代が現出すればよかったのにと思うことがないはずはなかった。貫之でなくても紀氏であれば誰でもそう思うのである。たとえ藤原北家のような摂関家にはなれなかったとしても、今のように落ちぶれるということはなかったであろうから。紀氏は惟喬親王即位に失敗し、その後応天門の変で完全に没落した。その逆に藤原北家は惟仁親王即位に成功し、人臣最初の摂政が生まれ、応天門の変によって古来からの名門伴氏と紀氏を完全に政権中枢部から駆逐した。惟喬親王が即位していれば。応天門の変がなければ。これは紀氏であれば誰もが口にする言葉である。あのことがなければ我が一族は滅びなかった。あのことがなければ我が一族は天下を手に入れていた。誰もがそう言う。誰もがそう思う。しかし貫之は子どものころから親や親戚が口にするそういった言説に疑問を持っていた。問題は藤原北家なのだろうか。藤原北家が我々を滅ぼしたのであろうか。貫之は親族が結論づけたその答えに納得できなかった。だからこの問題を逆に考えてみた。紀氏を滅ぼしたのは藤原北家ではない。藤原北家には紀氏を滅ぼす力はない。そう考えてみると、さすがに我ながら異様に感じられた。しかしそう考えてみて初めて気づいたことがある。それは一言で言えば背景である。つまり背負っているものである。藤原北家単体で天皇の力を封じ込め、他氏をすべて排斥するということができるか。いや、できるはずはない。藤原北家単体にはそれほどの力はない。藤原北家があれほど力があるのは、それに加勢する勢力があるからである。また藤原北家に勢力が集中するような制度があるからである。その制度によって貴族の大半は藤原北家に加勢せざるを得ない。そして藤原北家の権力を強固なものにしたさらに大きな要因は、何と言っても畿内を中心にした武士たちとの相互依存関係だ。これによって藤原北家は強力な実行部隊を獲得した。藤原北家によって滅ぼされた他氏の多くは、この実行部隊の暗躍に悩まされた。貫之は思う。紀氏は本来優秀な武人であった。優秀な武人であったから、新手の武士の力を頼むということはしたくなかった。誇りがそれを許さないのである。紀氏だけではない。由緒正しい貴族は皆そうしなかった。手段を選ばない藤原北家だけが新手の武士の力を頼むことに躊躇しなかった。これが功を奏した。貫之は思う。藤原北家に本気で対抗しようと思うなら、各地の武士の囲い込みを真剣に検討しなければならない。紀氏でそんなことを思っている者はいない。自分はどうしようか。妻の言うように紀氏の再興を謀るか。それにしても目の前にいる藤原北家の御曹司は何を考えているのだろうか。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日