芥川

63
春でも寒い日は寒い。美しい火鉢の赤い炭がうれしい。火鉢に美しい瓶子を入れた鍋が掛けられた。温まった酒のよい匂いがする。
「どうぞ」
「これはありがとうございます。それでは忠平様どうぞ」
「これはかたじけない」
「いや、これはよい御酒でございますね」
「どうぞ、たくさんお召し上がりください」
「どうもたびたび申し訳ございません」
貫之は酔って気持ちが多少大きくなり、先ほど呑み込んだ反論を持ち出してみた。
「良房様についてのお見立てですが、私は忠平様のお見立てにいささかわかりかねることがございます」
「ほう、それは」
忠平はいくら飲んでも少しも酔っていない様子である。
「良房様の政権は惟喬親王がたとえ即位したとしても動かなかったというお説でございますが、先ほどの手記のお言葉を拝見した限りでは、良房様があまり政治的な欲をお持ちではなかったと見受けられましたので、私は本当に政権を手放し、諸氏による持ち回り政権のようなものをお考えであったのではないかと思った次第ですが」
忠平は少し考えた。
「そこです。良房は政治があまり好きではなかったのかもしれません。気づいたら藤原北家に生まれていた。長男の長良は政治欲はそれなりにあったと思いますが、あまり政治向きではなかった。良房は政治欲はあまりなかったが、政治力が抜群だった。嵯峨天皇に見込まれ人臣で初めて内親王を娶った。要職を任された。良房はそれを運命として引き受けたのかもしれません。良房が重大な決定をするとき、いつも周囲にそれを促す存在があったのではないでしょうか。野心家の養子基経、摂津を中心とする武士たち。彼は敏腕であったために、そういった強力な取り巻き連中にうまく使われていたのかもしれません。それに彼は現実家でした。自分は政治が好きじゃないし、権力など投げ出したいと思っても、そうすることによって生まれる混乱状態を思うと、そんなことはできなかった。彼は責任感が非常に強かったのでしょう」
「なるほど。それで腑に落ちました。私の持っている良房様の人柄もまさにそのようなものでございます」
貫之が納得して満足そうな顔をすると、忠平は意地悪そうに笑った。
「貫之様は本当に真面目な方ですね。今私がお話ししたのは良房の表ですよ」
「表?」
「ええ、すべての物事には表と裏があります。良房は表の顔を作るのがうまい人でした。まことしやかに話を作れるのです。先ほどの手記は事実を書いたのでしょうけど、やはり裏は全部見せてないと思います。彼は誰も見るはずもないような落書きでさえ計算して書く人ですよ。基経が余計なことをしてとか、藤原北家が政権を持ち続けるのはよくないことだとか、きれいごとを言っていますが、私はこれをまったく言葉通りには受け取っていませんよ。いつか誰かがこの手記を発見して、後世に良房像を残すことを計算して書いたのかもしれません」
貫之は震えた。良房という人間は自分が深読みできない種類の人間なのではないかと思ったことがその原因だった。もう一つの原因は目の前にいる忠平という男も自分が深く読み込める人間ではないのではないかということに初めて気づいたことだった。
貫之は帰ろうと思った。自分はなぜここにいるのだろうか。自分はなぜ忠平の依頼を引き受けてしまったのだろうか。自分はなぜ良房の秘密を知ってしまったのだろうか。忠平はなぜ良房の秘密など探らせようとしたのか。そもそも忠平は良房のこの手記を本当に知らなかったのだろうか。囲炉裏の灰の底に良房の手記が埋まっているなどということがあるだろうか。伊勢とか武蔵とかいう女房たちはなぜ自分のような男に近づいたのだろうか。すべて罠なのではないだろうか。罠だとするといったい何の罠なのだろうか。応天門の変で罠に掛けられた伴善男と源信は最後まで誰が何のために罠に掛けたか気づかなかっただろう。自分にも壮大な計画に基づいた誰かの罠が掛けられているのだろうか。誰の罠か?
「どうぞ」
「これはありがとうございます。それでは忠平様どうぞ」
「これはかたじけない」
「いや、これはよい御酒でございますね」
「どうぞ、たくさんお召し上がりください」
「どうもたびたび申し訳ございません」
貫之は酔って気持ちが多少大きくなり、先ほど呑み込んだ反論を持ち出してみた。
「良房様についてのお見立てですが、私は忠平様のお見立てにいささかわかりかねることがございます」
「ほう、それは」
忠平はいくら飲んでも少しも酔っていない様子である。
「良房様の政権は惟喬親王がたとえ即位したとしても動かなかったというお説でございますが、先ほどの手記のお言葉を拝見した限りでは、良房様があまり政治的な欲をお持ちではなかったと見受けられましたので、私は本当に政権を手放し、諸氏による持ち回り政権のようなものをお考えであったのではないかと思った次第ですが」
忠平は少し考えた。
「そこです。良房は政治があまり好きではなかったのかもしれません。気づいたら藤原北家に生まれていた。長男の長良は政治欲はそれなりにあったと思いますが、あまり政治向きではなかった。良房は政治欲はあまりなかったが、政治力が抜群だった。嵯峨天皇に見込まれ人臣で初めて内親王を娶った。要職を任された。良房はそれを運命として引き受けたのかもしれません。良房が重大な決定をするとき、いつも周囲にそれを促す存在があったのではないでしょうか。野心家の養子基経、摂津を中心とする武士たち。彼は敏腕であったために、そういった強力な取り巻き連中にうまく使われていたのかもしれません。それに彼は現実家でした。自分は政治が好きじゃないし、権力など投げ出したいと思っても、そうすることによって生まれる混乱状態を思うと、そんなことはできなかった。彼は責任感が非常に強かったのでしょう」
「なるほど。それで腑に落ちました。私の持っている良房様の人柄もまさにそのようなものでございます」
貫之が納得して満足そうな顔をすると、忠平は意地悪そうに笑った。
「貫之様は本当に真面目な方ですね。今私がお話ししたのは良房の表ですよ」
「表?」
「ええ、すべての物事には表と裏があります。良房は表の顔を作るのがうまい人でした。まことしやかに話を作れるのです。先ほどの手記は事実を書いたのでしょうけど、やはり裏は全部見せてないと思います。彼は誰も見るはずもないような落書きでさえ計算して書く人ですよ。基経が余計なことをしてとか、藤原北家が政権を持ち続けるのはよくないことだとか、きれいごとを言っていますが、私はこれをまったく言葉通りには受け取っていませんよ。いつか誰かがこの手記を発見して、後世に良房像を残すことを計算して書いたのかもしれません」
貫之は震えた。良房という人間は自分が深読みできない種類の人間なのではないかと思ったことがその原因だった。もう一つの原因は目の前にいる忠平という男も自分が深く読み込める人間ではないのではないかということに初めて気づいたことだった。
貫之は帰ろうと思った。自分はなぜここにいるのだろうか。自分はなぜ忠平の依頼を引き受けてしまったのだろうか。自分はなぜ良房の秘密を知ってしまったのだろうか。忠平はなぜ良房の秘密など探らせようとしたのか。そもそも忠平は良房のこの手記を本当に知らなかったのだろうか。囲炉裏の灰の底に良房の手記が埋まっているなどということがあるだろうか。伊勢とか武蔵とかいう女房たちはなぜ自分のような男に近づいたのだろうか。すべて罠なのではないだろうか。罠だとするといったい何の罠なのだろうか。応天門の変で罠に掛けられた伴善男と源信は最後まで誰が何のために罠に掛けたか気づかなかっただろう。自分にも壮大な計画に基づいた誰かの罠が掛けられているのだろうか。誰の罠か?