芥川

芥川
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 雨に冷やされた夏の空気が心地よかった。布団の感触と滋幹の母の柔らかさが心地よかった。懐かしい匂いだった。橘の匂いだった。貫之は父の愛した側室のことを思い出した。優しい人だった。彼女の部屋に行くとこのようなよい香りで胸がいっぱいになったものだった。貫之はやっとそのことを思い出した。滋幹の母の部屋に入ってからずっと感じていた疑問が解けた気がした。
「お母様のお一人にあなたの家から来た人がいるのを今思い出しました」
 貫之は滋幹の母の耳元にささやいた。
「私の叔母です」
「父が死んだ後は、実家の方に戻られたと聞いております」
「糺の森を守っております」
「あの洞窟ですか」
「あれはいくつかあるうちの一つです。あなたが滋平と出た後、甲斐が武士たちを連れて荒らしました」
「甲斐というのは、国経様の手先ですね」
「今国経手配の武士たちが、あの洞窟周辺を探し回っています。叔母のところへも訪ねてきたそうです」
「業平様の日記は大丈夫ですか?」
「糺の森は広いです。隠すところはいくらでもあります」
 途中から滋幹の母の息が弾んだ。
「あなたの香りはとてもいい香りです。まるで橘のようです」
 滋幹の母は何も言わなかった。
「私の叔母の部屋に入るとあなたのような香りがしました」
「高子様から譲り受けたのよ」
「どういうことですか?」
「それは業平の日記を読んでください」
「読んでも構わないのですか」
「あなたがお約束してくださるのでしたら」
「もちろんです」
「私と結婚していただけるのですね」
「もちろんです」
「ずっと待っていてください。そのうちに時平が死にます。そうしたら私の父があなたのところへ行きます」
 滋幹の母は話すのをやめた。貫之ももう何も言わなかった。
 短い夜が明けた。貫之は下男の姿に着替えた。滋幹の母の手先が案内した。摂津の武士だった。
「こちらへどうぞ」
 裏木戸を抜けて、しばらく歩くと、藪陰に馬がつながれていた。男は貫之が乗るのを手伝おうとした。しかしその必要はなかった。
「貫之様はお上手ですね」
「こう見えても私も武人だからね」
「紀氏は馬の使い方が巧みだと聞いております」
「摂津にはかなわないよ」
「高子様もお上手でしたよ。今はお年を召しましたから、さすがに乗りませんが」
「高子様は摂津の武士たちとよく馬に乗っていたそうだね」
「私も若いころによくお供させていただきました」
「世間の評判は当てにならないね」
「高子様は気さくないい方です。業平様のことをとても愛しておられたようですよ」
「君は私に親しみを持ってくれるようだが、初対面の者にそんなにいろいろ話していいのかね」
「お嬢様の見る目には狂いはありませんから」
 男は滋幹の母を「お嬢様」と呼んだ。小さいころから世話をしてきたのだろう。
「私も人間を見る目は確かだと思っております」
「光栄だな」
「それにお嬢様とお約束を交わされた以上、貫之様は私のご主人でもあられます」
「大丈夫。私は覚悟を決めた」
 滋幹の母は紀氏と在原家の進めている計画を話した。藤原北家の秘密を収集し、それを後世に伝えること。藤原北家の政権を打倒し、紀氏と在原家の血を受けた者による政権を樹立すること。しかもそれは貴族政権ではなく武家政権であった。貫之には手に負えない計画ではあったが、しかし貫之の仕事はもっぱら秘密の収集であった。それならできると貫之は思った。
「こちらです」
 下男は大きな岩を指で指した。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日