芥川

芥川
prev

73

 外は雨。夏の空気が冷やされて、肌寒くはあるが、心地よくもあった。室内に柔らかい匂いが満ちていたせいであったかもしれない。
「いつかあなたにお目にかかりたいと思っておりました」
 女房装束の貫之は滋幹の母にこう言われて、どう挨拶を返したものか迷った。
「私もお目にかかれて光栄です」
「父がよく申しております」
 滋幹の母は灯台の灯に照らされ、まばゆいほど美しかった。
「あなたのお父様が何と?」
「古今無類の歌人とのことです」
 貫之は返事のしようがなかった。
「や、それは……」
「ところで、あなた方紀氏と私たち在原家は約束を交わしております」
「約束?」
「私たちは共に藤原北家に滅ぼされた家です。滅ぼされた家同士で、協力し合ってきたのです」
「しかしそのようなことは、私は父から聞いておりませんが」
「そういうことは、むやみに話さないことになっております。たとえ妻や子であろうとも、はっきりとした約束が得られないうちは」
 滋幹の母は口をつぐんで、じっと貫之の目を見た。
「もしこの先をお聞きになりたくないのであれば、私はお話いたしません。あなたは何事もなく家に帰り、これから先の人生も何事もなく過ごしていくことができます。しかしもしこの先をお聞きになりたいのであれば、あなたは私と新しい関係を結び、あなたの人生は大きく変わっていくでしょう。どちらになさいますか? これはあなたがお一人で決めなければなりません」
 貫之はどう返事をすればよいか、まったくわからなかった。
「いや、そうおっしゃられましても、返事のしようがございません。もう少しご説明いただかなければ困ります」
 滋幹の母は落ち着き払っていた。
「そうですか。では、お帰りください。これで私たちは二度と会うことはないでしょう」
 滋幹の母は立ち上がった。その背中に貫之は触れんばかりに近寄った。
「待ってください。少しだけ、少しだけ、考えさせてください」
 滋幹の母は元通りに座り、貫之の目を注視した。
「おそらくあなたのお話を聞いたら、私と藤原北家の関係は悪くなるのでしょうな」
 滋幹の母は何も言わなかった。
「あなたと結ぶ新しい関係とはどういったものでしょう? 仕事を一緒にさせていただくということですか」
「夫婦です」
「しかし現在あなたは……」
「お疑いであれば、先に関係を結んでから、お話をしてもよろしいのですよ」
「そんなことが……」
「それを望まないのでしたら、もうお帰りください。あなたがその気になれないのなら、これ以上お勧めすることはできません。あなたは現在のご自身の行うべきことをなさって生きて行くのがよいと思います。あなたの協力がなくてもこちらはこちらでやるだけのことをやりますから」
 貫之は考えた。
「あなたは女を餌に滅ぼされた伴善男や源信のことを考えているのでしょう?」
 貫之はうなずいた。
「これが実は藤原氏の巧妙な罠なのではないかと考えてはいませんか?」
 貫之はうなずいた。
「まったく逆です。私は紀氏と力を合わせて藤原北家を滅ぼすよう父に命じられ、今日まで生きて来ました。時平に奪われたかのようにしてこの邸に来たのも、父の計画の一部です。今日あなたがここへ来ることになったのも、父の計画の一部です。あなたが運命を共にするのは、藤原氏ではありませんよ。この私なのです。この私に力をください。あなたの類い希なる文章の力を」
 人間はその人間に定められた生き方をする以外には何もできない。貫之はそう思った。そして滋幹の母に引かれる自分をどうすることもできなかった。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日