芥川

76
業平は良房の命令に当惑していた。「わかりました」と威勢のよい返事はしたものの、内心は非常に複雑であった。
業平は状況を頭の中で整理してみた。
良房は弟の良相に後を継がせたかった。
右大臣良相の右腕は大納言伴善男である。
良相と善男は、太政大臣良房が不在の宮中で国政改革を断行しようとしている。
それは荘園の整理である。
しかし荘園整理には全国の武士たちが強硬に反対している。
良房は武士たちの手綱を取るのがうまい。
だから氏の長者として藤原氏をまとめ、太政大臣として日本をまとめることができた。
一方、良相と善男は、武士たちの実状をあまり把握せず、律令政治の理想論を口にしているだけだった。
良房は良相と善男の政策運営に絶望している。
良房はまだ若いが将来の見込みがある養子の基経に後を継がせることを決意した。
基経が政界で確固たる地位を占めるには、まだ良房の援助が必要である。
とりわけ良相と善男の弱体化は急を要する。
身辺が清潔で隙のない良相に下手に手出しするのは避けるべきである。
善男は女に目がない。
これを餌にするのが一番いい。
高子の名をうまく使う。
罠に掛けるのは善男だけではない。
善男には中庸(なかつね)という子がいる。
この子にも罠を仕掛ける。
中庸は父善男が大臣になることを望んでいる。
これを餌にするのが一番いい。
現在の大臣は、太政大臣が良房で、左大臣が源信で、右大臣が良相である。
良房を大臣の位から引きずりおろすのは、あまりに無謀で、成功の可能性もきわめて低く、大変危険なことである。
そんなことは誰もが知っている。中庸だってそんな餌には食いつかない。
良相は善男の庇護者である。
中庸にとって良相の繁栄はすなわち父や自分の繁栄であり、良相の没落はすなわち父や自分の没落である。良相を大臣の位から引きずりおろすべき理由はまるでないのである。
となれば、残るは源信ただ一人である。
この源信に罠を掛け、左大臣から引きずりおろせば、善男の庇護者良相は左大臣になり、中庸の父善男は右大臣になるであろう。
こういう秘密の計画を中庸に持ち掛けるのである。
業平が持ち掛けるわけにはいかない。
業平は政界では良房、源信に近く、良相、善男からは遠いからである。
そんな業平が持ち掛けたら、良房の罠であることがすぐにばれてしまう。
それは良房も当然わかっている。
だから良房は紀氏を使えといっているのだ。
「紀氏に適当な人物はいませんか」と良房は業平に訊いたが、良房の腹の中ではもう決まっているに決まっているのである。
紀豊城(きのとよき)である。
豊城は善男に仕えていた。軽率な男であった。
たしかに豊城をその気にさせれば事が持ち上がるであろう。
しかし……。
業平は自分の部屋で書類の整理をしながら考え続けた。
紀氏に申し訳が立たない。
「殿、有常様がお見えになりました」
有常は業平の義父であった。
「こちらへお通しなさい」
「ハッ」
やがて有常が来た。業平と趣味も合い、気心の知れた間柄である。
「お父様、私の方から出向くべきところ、ご足労願いまして、誠に恐縮でございます」
「おそらく込み入った話なのだろうな」
「お察しの通りでございます。実に困っておりまして……」
酒を注いでいた女房を部屋から出すと、業平はこれまでの経緯を詳しく説明した。
紀有常の表情は険しくなった。
「我が一族ももはやこれまでか」
業平は状況を頭の中で整理してみた。
良房は弟の良相に後を継がせたかった。
右大臣良相の右腕は大納言伴善男である。
良相と善男は、太政大臣良房が不在の宮中で国政改革を断行しようとしている。
それは荘園の整理である。
しかし荘園整理には全国の武士たちが強硬に反対している。
良房は武士たちの手綱を取るのがうまい。
だから氏の長者として藤原氏をまとめ、太政大臣として日本をまとめることができた。
一方、良相と善男は、武士たちの実状をあまり把握せず、律令政治の理想論を口にしているだけだった。
良房は良相と善男の政策運営に絶望している。
良房はまだ若いが将来の見込みがある養子の基経に後を継がせることを決意した。
基経が政界で確固たる地位を占めるには、まだ良房の援助が必要である。
とりわけ良相と善男の弱体化は急を要する。
身辺が清潔で隙のない良相に下手に手出しするのは避けるべきである。
善男は女に目がない。
これを餌にするのが一番いい。
高子の名をうまく使う。
罠に掛けるのは善男だけではない。
善男には中庸(なかつね)という子がいる。
この子にも罠を仕掛ける。
中庸は父善男が大臣になることを望んでいる。
これを餌にするのが一番いい。
現在の大臣は、太政大臣が良房で、左大臣が源信で、右大臣が良相である。
良房を大臣の位から引きずりおろすのは、あまりに無謀で、成功の可能性もきわめて低く、大変危険なことである。
そんなことは誰もが知っている。中庸だってそんな餌には食いつかない。
良相は善男の庇護者である。
中庸にとって良相の繁栄はすなわち父や自分の繁栄であり、良相の没落はすなわち父や自分の没落である。良相を大臣の位から引きずりおろすべき理由はまるでないのである。
となれば、残るは源信ただ一人である。
この源信に罠を掛け、左大臣から引きずりおろせば、善男の庇護者良相は左大臣になり、中庸の父善男は右大臣になるであろう。
こういう秘密の計画を中庸に持ち掛けるのである。
業平が持ち掛けるわけにはいかない。
業平は政界では良房、源信に近く、良相、善男からは遠いからである。
そんな業平が持ち掛けたら、良房の罠であることがすぐにばれてしまう。
それは良房も当然わかっている。
だから良房は紀氏を使えといっているのだ。
「紀氏に適当な人物はいませんか」と良房は業平に訊いたが、良房の腹の中ではもう決まっているに決まっているのである。
紀豊城(きのとよき)である。
豊城は善男に仕えていた。軽率な男であった。
たしかに豊城をその気にさせれば事が持ち上がるであろう。
しかし……。
業平は自分の部屋で書類の整理をしながら考え続けた。
紀氏に申し訳が立たない。
「殿、有常様がお見えになりました」
有常は業平の義父であった。
「こちらへお通しなさい」
「ハッ」
やがて有常が来た。業平と趣味も合い、気心の知れた間柄である。
「お父様、私の方から出向くべきところ、ご足労願いまして、誠に恐縮でございます」
「おそらく込み入った話なのだろうな」
「お察しの通りでございます。実に困っておりまして……」
酒を注いでいた女房を部屋から出すと、業平はこれまでの経緯を詳しく説明した。
紀有常の表情は険しくなった。
「我が一族ももはやこれまでか」