芥川

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77

 酒はほとんど減っていなかった。料理も来たときのままだった。
 業平は決意した。
「お父様、ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした。私はこれで覚悟が決まりました。私が中庸に何とか働きかけてみます」
 有常は黙っていた。
「それでは話はここまでとしましょう。酒を替えさせますので、お待ちください」
 業平は手を叩いた。女房が顔を出した。
「業平殿、私の話を聞いてくださるか?」
 有常はいつになく恐い顔をしていた。
 業平は顔を出した女房をまた向こうへやった。
 有常は決意した。
「業平殿、ここは良房様のご命令通りにいたしましょう。紀氏の適当な人物に話を持ち掛けるのです」
「いや、しかし、……」
「もちろんこれで紀氏は壊滅的な打撃を受けます。伴氏と協力関係にある紀氏は連座を免れないでしょう」
「おっしゃる通りです」
「しかし在原家と協力関係にある紀氏はおそらく難を逃れることができるでしょう」
「それもおっしゃる通りです」
「良房様のご命令に背けば、あなたは今後きわめて困難な状況になるでしょう」
「ええ」
「あなたと親しい私たちも居心地が悪くなります」
「おそらく」
「従えば、伴氏に親しい紀氏が打撃を受ける」
「……」
「背けば、在原家に親しい紀氏が打撃を受ける」
「……」
「どちらにしても紀氏の衰退は免れないのです」
「……」
「豊城には気の毒だが、我々も生きて行かなければならないので、致し方ない」
「……」
「それに正直な人間が陥れられるのであれば、何とかしてそれを避ける方法を考えるべきだが、豊城は軽率な男である。欲深い人間でもある。豊城にこの話を向けても、豊城が真人間であれば、当然断るであろう。受けるとすればそれは豊城が悪いのである」
「私もその通りだと思いますが、しかしお父様、私が心配しているのは夏井にまで連座が及ぶのではないかということです」
「何、夏井!」
 有常は意表を突かれた。紀夏井は正しい人間である。国司として任国に滞在すると、その仁政に人々が感化され、任期の延長を求めに人々が哀願に来るぐらいである。任果てて人々が餞別の品をたくさん持って来ても、夏井は紙と筆の類いしか受け取らず、後はすべて返してしまうのである。
「馬鹿な。夏井は正義の人だぞ」
「その正義が仇になるかもしれません」
「どういうことだ」
「夏井からすれば、現在の荘園制度は我慢できないほどの欠陥でありましょう。つまり荘園廃止側という意味では、やはり良相、善男側なのです。夏井が我々のように荘園存続側である良房、基経側に与しなければ、連座を免れることは難しいと思われます」
 有常は腕を組んで目を閉じ、考え込んだ。が、やがて目を開くと、眉間に皺を寄せて、言った。
「この際、背に腹はかえられない。夏井はあきらめよう」
「本当に我々にとって苦渋の決断です」
「夏井は紀氏としては、将来の太政大臣候補だったのだがなあ」
「夏井を失うと、紀氏、在原家は寂しいですね」
「いや、今回は、そうかもしれないが、いつか必ず政権を取り返す」
 紀氏は奈良時代には光仁天皇の外戚として繁栄していたが、平安時代になってからは、藤原北家に圧倒されて、まったく勢いがなくなってしまったのである。有常の妹静子は文徳天皇に入内し、第一皇子である惟喬親王を生んだが、良房の策略により即位はかなわなかった。いつかまた良房に一泡吹かせてやりたい。有常はこの思いで生きているといってもよい。そのためなら今は良房に従うのもやむを得まい。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日