按察

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 萩の花の横で、可須水としずくは、尼の話に驚いていた。
「重世王?」
「はい」
「しかし、重世王は、式部卿宮のご子息で、斎宮女御様のお兄様でございます。そんな山賊風情と手を結ぶのは、考えられません」
 可須水は、頭がおかしくなりそうだった。自分のこれまで信じていたものが、音を立てて崩れていくような気持ちがしていたのだ。
 越前の人々の気持ちはわからなくもない。自分たちの祖先に、皇位継承者がいて、実際に即位したというのに、結局は、中央政府に持っていかれることになってしまった。こうなったら、いつかは、自分たちの土地に、皇位継承者を取り戻してみせよう。そういうことをひそかに考え続け、継体天皇の子孫を庇護し続けてきた人々の気持ちは、いつかは近江に都を取り戻したいと願う、近江派の一員として、よくわかるのではある。しかし、たとえ、そういう気持ちがあったとしても、越前国の政庁を攻撃することは、国家へのあきらかな反逆行為である。近江派であれば、同じようなことが目的であったとしても、決して同じような手段には出ないはずだと、可須水は、今日まで信じて生きてきた。それなのに、大納言が継世王を追討する部隊の派遣を命じても、近江が動かないのは、どういうわけなのか。近江掾までもが、今回の騒動を絶好の機会だと考えているらしいのが、腹立たしくてならなかった。そんな得体のしれない勢力と組んだりしたら、たちまち摂津派が食いつくであろう。近江派壊滅の絶好の機会になるからだ。そんな危うい賭けに出てはならない。今は、やはり摂津派との同盟を維持しておいた方がよいのだ。
 しかも、近江掾だけでなく、重世王までも、この話に飛びつこうとしているらしい。それが、どうにも信じられなかった。重世王は、冷静沈着で、危なっかしい行動など、決して取ることはなく、何事にも中庸を心掛ける人だというのが、もっぱらの評判であった。まず、重世王の父である式部卿宮が、そういう人である。式部卿宮は、先々帝の子で、帝の兄であった。しかし、帝と同腹ではない。母は源氏であった。親王になることはできたが、皇位継承の可能性は、ほぼ絶望的であった。娘である斎宮女御を帝に入内させ、皇子もいるが、この皇子が皇位を継承する可能性も、きわめて低い。このような立場の式部卿宮の息子の重世王は、天皇の子ではなく、親王の子であるから、親王宣下されることも、まず、あり得ないことであったし、したがって、当然、皇位を継承する可能性など、あるはずがないのであった。もちろん、歴史の中では、ごくわずかに例外があったが、一般的には、ないと言っていいのである。ただ、その例外の一人が、現在の問題の原因となっている、継体天皇であった。継体天皇は、王から即位した、きわめて珍しい例の一人なのである。そして、継体天皇の子孫を主張する継本王も、彼の主張通りに皇位を継承することがあるとすれば、そういう珍しい例の一人に数えることができるであろう。重世王が継本王に興味を示したというのは、いったいどういう点にだろうか。
 可須水は、思い切って、そういう疑問を尼にぶつけてみた。すると、尼は、次のように、可須水に答えた。
 継本王が皇位継承することによって、皇室と藤原摂関家との距離が開く。それは、同時に、皇室と摂津派との距離が開くことをも意味する。重世王やその父の式部卿宮は、たしかに、摂津派である。だが、その内部の派閥としては、三河派という、これもなかなかの勢力の領袖なのである。三河派は、摂津派内で、当然、主流派になることを常にねらっている。それができなければ、三河派として、独立してもいいという腹もある。だから、常に、近江派や播磨派の動静をうかがい、摂津守打倒に向けた、同盟関係が構築できるか、探り続けているのである。ただ、現在は少なくとも、そういう段階にはなっていなかった。ところが、継本王の出現は、起爆剤になり得る現象なのであった。継本王の拠点づくりのために、どうやら近江が支援を始めたようだし、水面下で播磨も支援の意志を示しているらしい。機は熟し始めている。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日