按察

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93

 美しい萩の花のことなど、可須水はもう忘れてしまっていた。
「では、重世王は、三河を率いて、継本王とかいう方の擁立に向けて、戦いなさるのですね?」
 尼は、謎めいた目をした。
「そこが難しいところのようです。もし失敗なされば、重世王は、謀叛の罪で、処罰されてしまわれるでしょう」
「ええ」
「ですから、重世王ご自身は、京にとどまり、だれか、ほかの者に率いさせるでしょうね」
「どなたに?」
「越前の平定に熱意を示されている公卿がいらっしゃるそうです」
「少将様ですか?」
「はい。少将様は、三河の軍勢を引き連れて、越前に向かわれることになるようです。三河は、途中で、真の目的を少将様に知らせるはずです」
「それはひどい! 少将様は、謀叛の罪で処罰されてしまいます」
「ご心配には及びません」
 尼は、また、謎めいた目をした。
「どういうことですか!」
「三河は、重世王の思惑通りには動きません」
「どういうことですか!」
「少将様の奥方には、三河派がついております」
「しかし、中の君は、左大臣様の娘ですから、摂津派ですよ」
 尼は、また、謎をかけるような目をした。
「ふふふ、あなたのような賢い方もお気づきにならなかったのですね」
「どういうことでしょう?」
「左大臣の中の君が、北の方の娘ではないことは、ご存じですよね?」
「ええ、お母様がお亡くなりになり、左大臣邸に引き取られたとか」
「中の君のお母様は、なんでも二条の后の血筋で、お亡くなりになった中の君のお母様のお父様は、かつて三河派の領袖でいらっしゃいました。中の君に仕えている侍女は、中将の君といいまして、三河守の娘でございます」
 可須水は驚いた。可須水は、これまで左大臣邸で、左大臣や北の方の動静ばかりうかがって、任務を遂行していた。中の君のことは、それほど深く考えず、ただ少将との結婚がうまくいくように取り計らえばいいと思うだけであった。ただ、親しみを感じていたので、左大臣から中の君の侍女として少将邸についていってほしいと言われたときは、うれしいと思った。左大臣が亡くなったあとに、北の方に仕えるのは気が進まなかったからだ。その中の君は、摂津派ではなく、三河派だったのだ。しかも、侍女の中将の君が、三河守の娘だったとは。あの中将の君という侍女は、いつもなにも言わずに、中の君のそばに控えている。三河守といえば、大変裕福で、屋敷も壮大だと聞く。自分のような没落した家の娘とは、隔たりがあまりにも大きい。あの左大臣邸で、自分のような女が得意げにふるまっているのを、彼女は冷笑しながら見ていたに違いない。可須水が、自分のうかつさを恥ずかしく思っていると、尼が続けた。
「三河守は、中の君が少将様と結婚したことを、とても幸運なことだと考えています。ご承知のことかもしれませんが、少将様は、越前に広大な所領をおつくりになっております。越前は、中国との貿易で、最近、非常に繁栄しております。少将様は越前守や越前の寄人たちと、これを発展させて、周囲の勢力を取り込むことを計画していらっしゃいます。三河守は、越前と手を結び、新たな派閥を誕生させたいと考えております」
 可須水は、この世界の新たな現象が次々に出てくることに、目が回りそうだった。
「この計画の成功のために、あなたの力をお借りできませんでしょうか」
 可須水は、なんと返事したらよいか、わからなかった。
「しかし」
「近江派が動かないのは、三河と越前の動きを見定めるためなのです」
「近江も手を結ぶとおっしゃるのですか」
 尼は、しばらく黙っていた。
 可須水も、なにも言わなかった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日