All You Need Is Book(本こそすべて)

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  『苦海浄土』石牟礼道子

 池澤夏樹の選んだ世界文学全集がある。フォークナー、カフカ、ドストエフスキー、ル・クレジオ、ヘミングウェイ、トルストイ、ソルジェニーツィン、ホメロス、アップダイクと、世界の巨匠が居並ぶ中、彼が戦後日本文学から選んだのがこの作品である。川端康成でも大江健三郎でも村上春樹でもないのだ。村上春樹は現在世界中で読まれているようだが、それが永続的な関心なのかはわからない。日本から発信するものとして、そして、世界的な無形文化遺産として、『苦海浄土』は世界中の人に大きな満足を与えてくれるものであると、読後確信した。生活の近代化に伴い、環境破壊が深刻なものになっている。現代人の便利な生活を支えるために化学製品を大量生産する一企業が豊かな自然を汚染し、地域住民に地獄の苦しみを与えた。工場が海に垂れ流した排水に含まれる多量の有機水銀を体内に蓄積した魚を日常的に摂取することによって、地元の漁師が前代未聞のおぞましい病気になったのである。それが水俣病だ。この病気の原因となった新日本窒素を告発し、環境保護を訴えた著書は数多いだろうが、なぜ本書が抜きんでているのであろうか。
 歌人であり、詩人でもある石牟礼(いしむれ)道子の言葉は美しい。話すことも動くことも満足にできない発症者の体温と息づかいが、彼女の独特な文体でみずみずしく描かれている。それらをほんの少し紹介しよう。
 情が深く働き者のゆきは夫とともに漁をする。舟の上で彼女がイカやタコを追いかけるシーンに、大学病院で解剖されたゆきの内臓を計量する執刀医の姿を配す作者の筆づかいは絶妙だ。
 杢(もく)の祖父母は漁を終えた朝、沖のきれいな潮水で米を炊き、山盛りの鯛の刺身を食べながら焼酎を飲む。これ以上の幸せはないと言う。魚は舟で食べるのがいちばんうまく、米の飯は沖の水で炊き、ほんのり潮の味がするのがいちばんうまいそうだ。どれほど地位や財産のある人でもできないような贅沢を味わえる彼らが帰る小さな家に、発病した九歳の杢がいる。父も水俣病である。母はいない。自分らが死んだあとの杢のことを考え、祖父母は頭を悩ませる。
 四歳で発病し十七歳になったゆりは、体位を変えることができず、言葉を話すこともできない。しかし、顔は人形のように美しく、肌は娘らしいよい香りを放つようになった。母親は娘が魂の抜けた人間だとは到底思えないのである。
 石牟礼道子の描く、みずみずしい生命観や生き生きとした生活場面にしばし時を忘れ、ふと我に返ると、この事件の深刻さがいっそう深く胸に刻まれているのである。
 公害対策も進歩したのか、最近では悲惨な症状が現れる奇病が問題になることはないようだ。旭化成や積水ハウスの母体でもある新日本窒素は、社名は変更したものの現在も存在しており、液晶技術ではトップシェアを誇る。そもそも化学製品を扱う企業はここだけではない。したがって有害物質は非常に薄められた形で生活空間に常在し、人体に影響を与えているのだろう。便利な生活はやめられそうもないが、環境問題はこれからも考えなければならない。(2011/12/9)
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 All You Need Is Book(本こそすべて)
◆ 執筆年 2010年10月15日~