シダ

妖精
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 「作家の私生活を見たかったの」
 僕は確かに作家だ。作家の条件に、人口の一割以上の国民に知られていること、生活時間の三分の一を仕事に当てていること、家計を支える仕事であること、いずれか一項目を満たす者というのがなければの話だが。
 大学の友人――彼はしばしば真面目で言っているのか冗談で言っているのか区別の付かないときがある――が自分のホームページに僕の小説を掲載してくれている。その但し書きに、「前橋市在住の作家コーク氏」と紹介してあるのだ。それで、ブルーベリーの妖精のような勘違い人間がやってくるのだろう。
 ちゃんと読んでくれる人なんてほとんどいないだろうなあと思っていると、これが結構メールが来る。ブルーベリーの妖精のように、僕を有名な人間だと勘違いしてメールを送ってくれる人もいる。中には小説を読まずにメールだけを送ってくれる、カネッティの「ねぶり男」みたいな人間もいる。
 僕は、彼女を「ねぶり女」だと思っていた。しかし、彼女はあくまでブルーベリーの妖精だった。いまだにそうだ。

 僕は三〇歳の誕生日を迎えた。三〇歳になるのは感慨深かった。
 その日、僕は朝四時に目が覚めた。しかし、三〇歳の朝だからといって特別なことが僕を待ち受けていたわけではない。二週間に一度の、ビン・カンの回収日は、僕の誕生日だからといって次の日に日延べしてくれたりはしない。僕が三〇歳の朝最初にやったことは、ビン・カンをゴミの集積所に運ぶことだった。そのあとオレンジを絞って飲んだ。オレンジを探すとき、冷蔵庫をかき回していて、袋の中に入っていた山椒の棘を刺してしまった。痛かったが、山椒を憎む気にはなれなかった。痛みをすんなりと受け止められる。肉体的な痛みだけでなく、精神的な痛みも、受け止められる。三〇歳になったらそういうことができるようになってきた。
 三〇歳の朝、僕は手紙を書こうと思った。ところが書く相手が一人もいなかった。出さない手紙でいいから、書きたかった。ブルーベリーの妖精に書こうか。でも、ブルーベリーの妖精と僕との間には最近いろいろなことがありすぎて、とても気持ちがまとまるものではなかった。
 僕はレイコのことを考えた。
 あの頃の僕は二〇歳になったばかりで、自分のことばかり考えていた。レイコはそんな僕をあきらめざるを得なかった。
 レイコに手紙を書きたかった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 シダ
◆ 執筆年 1998年