シダ

妖精
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 もしこのような僕の生き方がうらやましいと思う人がいたら、点検作業をすることをおすすめする。いろいろなことを削除していって一つに残ったら、それがその人にとって僕の書くことに当たる。そして、その一つのことにかけた人生を送ればいい。ただし、そこには耐え難い多くの外圧と甘んじなければならない多くの非難が存在するということも知っておいた方がいい。
 とにかく、僕は書く人生を選んだ。空気士にも蛙の調教師にもならずに、僕は僕の言葉で僕の文章を書き続ける。

 書くというのは捨てることだ。プライドも、夢も、金も、パソコンも、車も、小川のせせらぎも、村上春樹も、眠りも、友も、妻や子も、職も、学問も、日本語も、食事も、ジョン・レノンも、コーヒーも、一切捨てるのだ。書いている間だけでも捨てなければ身が持たない。思い浮かんだことをいちいち切って捨てていく、それが書くという行為である。
 書くというのは、余分なものを捨てて、一つに集中する行為である。しかし、実際には一つのことにそんなに集中できるわけがない。僕の場合、余分なことにできるだけ足を取られないように細心の注意を払うことでやっとだ。その間ずっと気を緩めることができない。かといって、気を張りつめてもいけない。そうやって長い長い時間を過ごすのだ。
 気がつくと何かが生まれている感じがしてくる。ある一つの場所にたどり着きそうな感じがしてくる。いや、それも本当は気のせいなのかもしれない。
 それでもやはり何かが生まれようとしていると思う。何が生まれようとするのか。
 愛だろうか。
 愛のことはよくわからない。書くことを続けてきて、愛せるようになったかというと、いまだに疑問が残る。
 では、何も得るものがなかったのかというと、そうでもない。一つだけ言えるのは、時間をあまり惜しまなくなったということだ。昔は、何でもかんでも惜しんだ。特に時間を惜しんだ。今は違う。時間なんか少しも惜しくない。
 そして、なぜかこう思った。惜しまないようになったということは、愛する資格を身につけたということではないだろうか。その辺の脈絡をうまく説明できないのだが、とてもそんな気がするのだ。
 僕は、今、愛することができる、ような気がする。

 それでは、ブルーベリーの妖精を愛しているのかといわれると困ってしまう。
 なにしろブルーベリーの妖精は想像のつかないことがありすぎる。
 予想外の要素も含めて人を完全に信頼しきれるかというと難しい。やはり、不可解な部分がある人には自然と警戒心が働いてしまう。
 あまり言葉をかわさなくても安心して一緒にいられる人物もあるが(だいたい犬などは言葉をかわさなくてもたいがい安心感をもてる)、その逆に、どんなに言葉をかわしても胡散臭い人物もある。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 シダ
◆ 執筆年 1998年