シダ

妖精
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15

 そうやって、彼は帰っていった。
 その後の彼女とのことは前に書いたとおりである。
 僕が会社を三日も休まなくてはならないほど彼女の機嫌を損ねた原因。それはこのセリフだ。
 「迷子の猫の飼い主が見つかるまで餌をやっているようなものですから」
 僕が彼に言ったこのセリフを、彼女はぞっとするぐらい僕そっくりに、三日間ドア越しに言い続けたのだ。
 「あれは……」
 本心ではなくて君の亭主への弁明だよと言おうとして、言えなくなった。弁明じゃなくてやっぱりほとんど本心だなあって思ったせいである。
 「弁解なんかするな!」
 僕はそう怒鳴られるたびに、はじかれるように後ずさった。そして、彼女はすすり泣いた。まるで、ドアが怒鳴ったり、すすり泣いたりしているみたいだった。
 三日後の朝早く、彼女はすっきりした顔で、ダイニングのテーブルにやってきて、ベンチに腰かけた。
 僕は、目玉焼きと、コーンフレークと、牛乳と、レタスとセロリとトマトのサラダと、コーヒーを彼女の部屋に運ぶところだったが、そうしなくてもよくなり、二人で三日前までのように並んで食べた。彼女は僕と並んで食べるのが好きだった。だからきっと機嫌を治しているのだろうと思った。それはおそらくその通りだったのだろう。しかし、僕はまたまずいことを言ってしまい、彼女の機嫌を完全に回復させる時期を遅らせてしまった。僕は次のようなまずいセリフを言ったのだ。
 「君が亭主のところへ戻らない理由は何だい?」
 僕は、この朝から会社に行くことはできたが、四日間は彼女にこのセリフを何度も何度も口まねされた。
 彼が帰った一週間後、彼は電話をかけてよこした。彼はなぜもっと早く電話をよこさなかったのかと詰問した。できるわけがない。彼女はこの日はもう「君が亭主の……」をまねしないようにはなっていたが、彼のことを少しでも話し出せば、事態が再び悪くなるだろうことは明らかだったからだ。
 でも、こちらから電話をしておけばよかったのだ。何か適当に取り繕って、彼を怒らせないようにしておけば本当はよかったのだ。しかし、今となってはもうどうにもならない。僕は、全くこの手の社交能力に欠けていてつくづく情けなくなる。
 僕は、彼女にあなたの気持ちを伝えるにはもう少し時間がかかりそうなこと、だからあなたが彼女に会うのはまだ難しそうなことを率直に伝えた。しかし、この時の率直さは裏目に出た。彼は、彼女に対する僕の立場を疑った。
 「そんなの君約束が違うじゃないかね」
 「そんなこと言われても困りますよ。僕だって約束を遂行するためにかなり骨を折っているのですから。この問題はどうあっても時間が必要なのです。気長に待っていただかなければ、僕も期待に添うことはできかねますよ」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 シダ
◆ 執筆年 1998年