ローカル・コミュニケーション

恋人
prev

9

「君は有能だ。だから、私は業績の落ち込みに頭を悩ませていたこの支社に君を呼んだ。しかし、今回の件は本社の指示だ。私の権限の及ぶ範囲ではない。それほど対中国戦略は重要度を増しつつあるのだ。当社で奨励している研修の中で、数年前から中国語を習ってきたのは、君もこういう事態を予測してのことだろう。このプロジェクトで成功すれば、将来の君の地位も保証されるだろう。」
 デスクに戻り、敏行は頭を抱えた。中国行きは、山形寛子との交際を断る口実になる。しかし、沙於里と会えなくなるのは耐えがたかった。彼は沙於里のデスクに行った。
「松村さん、話があるんだ。」
「どうしたの?」
 彼は中庭に沙於里を連れ出し、打ち明けた。中庭には、紫色のアジサイが強い日差しのためしぼみかけていた。
 沙於里は動じなかった。
「だって、別に一生向こうに行っているわけでもないんだし、私は構わないよ。お盆休みには必ず会いに行くから、寂しがらないでね。」
 そう言って微笑む沙於里の顔は、敏行を頼りきって安心していた。
「俺がいつも君のことを考えているということを忘れないでほしい。」
 敏行はじっと沙於里の目を見つめた。
「どうしたの? そんなこと分かっているわよ。でも、うれしいわ。私だってそうよ。」
「中国から戻ってきたら結婚してくれないか?」
 敏行はじっと沙於里の目を見続けていた。沙於里も敏行を見ていた。そして言った。
「はい。こんなふつつかなわたくしでよろしかったら。」
 沙於里の両目から嬉し涙がこぼれた。

 山形寛子との約束の日であった。
 敏行は、腕の立つ調理人と落ち着いた雰囲気で定評のあるイタリア料理店にいた。目の前には、山形寛子が座っている。ベージュのスカートと白いブラウスをエレガントに着こなしている。にこやかに微笑みながら、料理を優雅な手つきで口に運ぶ。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 ローカル・コミュニケーション
◆ 執筆年 2006年