ロコモーション

6
コーラを剛の前に置くと、令子は彼の正面のイスに座った。彼がかしこまっていると、令子は言った。
「レモン、しぼってあげようか?」
剛は彼女の顔も見ないで、うん、とうなずいた。半月型のレモンがつぶれる小さな音と、さわやかな香りがして、彼が顔をあげると、きびきびした令子の手と指がすぐ近くに見えた。それから、まっすぐ平行に伸びた両腕と襟元と首が彼には見えた。
「どうぞ」令子は、レモンにぬれた指をまっ白いふきんでふいた。
剛は、コーラをひと息に、一生懸命飲んでむせかえった。
「ゆっくり飲めばいいのに」令子は剛のうしろに回って、背中をさすった。「大丈夫、ツヨシ君?」
令子は、剛のような小さい男の子の世話を焼くことを楽しいと思った。彼女は姉の美智子とふたり姉妹なので、こういう機会はまったくなかった。年が離れているので、いつもは自分が何かと面倒を見てもらう方だった。だから、こういうふうに面倒を見てあげられるのがいい気分だった。
また、剛と一緒にいられるのがうれしかった。彼女は家にひとりで置かれることが多かったからだ。姉も父も母も多忙なのだ。
令子の父は自動車会社の研究室に勤めている。朝は早く、夜は遅い。彼女の母は音楽大学の助教授をしながら、交響楽団のビオラ奏者も務め、さらにいろいろな楽団の賛助や指導をこなし、やはり朝は早く、夜は遅い。
父も会社の交響楽団でクラリネット奏者を務めている。その楽団に彼女の母が賛助で参加したのがきっかけで両親は結婚した。そういう両親だから当然のように家庭は音楽にあふれるようになった。
美智子は今年音楽大学に入り、声楽を学んでいる。両親はオペラ歌手になることを望み、周囲も期待しているが、本人は真剣にポピュラー歌手を目指し、バンド活動をしている。バンドの名前はツイン・ビートル。正幸と辰吉が同じ色のビートルに乗っているということで、そういうバンド名に決まった。
ツイン・ビートルのメンバーはみんな彼女と同じ大学の学生だ。蜂屋正幸がドラム、横山宏美がギター、松田恵がベース、渋谷辰吉がサックスとキーボード、そして美智子がボーカル。
宏美と恵は、美智子の声楽科のクラスメート。正幸と辰吉は器楽科の3年生。5人がいっしょにいると、誰も音楽大学の学生とは思ってくれない。サイケデリックな色調のファッションに身を包んだ彼らが、2台のクリーム色のビートルに分乗して繁華街を走っていると、大人たちは白い目で見る。
外見の力は絶大だ。彼らは社会的にはそれで損ばかりしているが、内面は真面目でひたむきな学生だ。講義に欠かさず出席するし、練習熱心だし、実力もあるし、詞も曲もつくれる。
彼らは大学の定期演奏会では、穴だらけ、つぎはぎだらけの服を脱ぎ、黒い服を着る。美智子と恵はアルト。宏美はソプラノ。正幸はフルート、辰吉はクラリネット。
辰吉はだから美智子の父親に少し気に入られている。クラリネットのことを話しだしたら、ふたりの世界は際限がないからだ。正幸と美智子の仲がいいので、辰吉は正幸の目をいつも気にしている。美智子の父親にあまり気に入られると、正幸に叱られるのではないかと思っているのだ。正幸はそんなこと少しも心配していない。もっとも、美智子が辰吉に傾いていったら彼も平気ではいられないだろうが、そんなことはあり得ないと思っている。むしろ、辰吉が美智子の心をつかんだら、正幸は、お前たいしたもんだ! と、ほめてしまうかもしれない。彼は美智子を女性としても人間としても尊敬している。彼女は人柄もいいし、人間的な魅力もあった。彼はそのことをいちいち誰かに話して聞かせたりしなかったが、いつもそう思っていた。彼は美智子に対してもどちらかというと不愛想に接したが、思いっきり優しい時もあった。何よりも彼の優しさは美智子に届いていた。
大学とバンドの両方を手を抜かないでこなしているため、美智子も両親に劣らず忙しい。彼女は小さい令子と、もっと遊んでやらなければと思っているが、手が回らない。
もっとも、令子だって寂しいと感じる時間なんかほとんどない。ピアノのレッスン、水泳教室、両親の演奏旅行についていったり、いろいろな音楽家の家族とつき合ったりと、スケジュールが詰まっている。
令子は、その忙しさを想像するだけで、あまりに恐ろしくて、片づけられることはどんどん片づけてしまおうと、小学校の夏休みの宿題などははじめの5日間で終わらせてしまった。そして、残りの夏はほとんど音楽1色である。
令子にとって今日は久しぶりに訪れた休暇だった。何もやらなくていい時はかえってあれこれ考えてしまう。そんな時だ。わたしはいつもひとりぼっちなんだ、と寂しい気持ちになるのは。
「レモン、しぼってあげようか?」
剛は彼女の顔も見ないで、うん、とうなずいた。半月型のレモンがつぶれる小さな音と、さわやかな香りがして、彼が顔をあげると、きびきびした令子の手と指がすぐ近くに見えた。それから、まっすぐ平行に伸びた両腕と襟元と首が彼には見えた。
「どうぞ」令子は、レモンにぬれた指をまっ白いふきんでふいた。
剛は、コーラをひと息に、一生懸命飲んでむせかえった。
「ゆっくり飲めばいいのに」令子は剛のうしろに回って、背中をさすった。「大丈夫、ツヨシ君?」
令子は、剛のような小さい男の子の世話を焼くことを楽しいと思った。彼女は姉の美智子とふたり姉妹なので、こういう機会はまったくなかった。年が離れているので、いつもは自分が何かと面倒を見てもらう方だった。だから、こういうふうに面倒を見てあげられるのがいい気分だった。
また、剛と一緒にいられるのがうれしかった。彼女は家にひとりで置かれることが多かったからだ。姉も父も母も多忙なのだ。
令子の父は自動車会社の研究室に勤めている。朝は早く、夜は遅い。彼女の母は音楽大学の助教授をしながら、交響楽団のビオラ奏者も務め、さらにいろいろな楽団の賛助や指導をこなし、やはり朝は早く、夜は遅い。
父も会社の交響楽団でクラリネット奏者を務めている。その楽団に彼女の母が賛助で参加したのがきっかけで両親は結婚した。そういう両親だから当然のように家庭は音楽にあふれるようになった。
美智子は今年音楽大学に入り、声楽を学んでいる。両親はオペラ歌手になることを望み、周囲も期待しているが、本人は真剣にポピュラー歌手を目指し、バンド活動をしている。バンドの名前はツイン・ビートル。正幸と辰吉が同じ色のビートルに乗っているということで、そういうバンド名に決まった。
ツイン・ビートルのメンバーはみんな彼女と同じ大学の学生だ。蜂屋正幸がドラム、横山宏美がギター、松田恵がベース、渋谷辰吉がサックスとキーボード、そして美智子がボーカル。
宏美と恵は、美智子の声楽科のクラスメート。正幸と辰吉は器楽科の3年生。5人がいっしょにいると、誰も音楽大学の学生とは思ってくれない。サイケデリックな色調のファッションに身を包んだ彼らが、2台のクリーム色のビートルに分乗して繁華街を走っていると、大人たちは白い目で見る。
外見の力は絶大だ。彼らは社会的にはそれで損ばかりしているが、内面は真面目でひたむきな学生だ。講義に欠かさず出席するし、練習熱心だし、実力もあるし、詞も曲もつくれる。
彼らは大学の定期演奏会では、穴だらけ、つぎはぎだらけの服を脱ぎ、黒い服を着る。美智子と恵はアルト。宏美はソプラノ。正幸はフルート、辰吉はクラリネット。
辰吉はだから美智子の父親に少し気に入られている。クラリネットのことを話しだしたら、ふたりの世界は際限がないからだ。正幸と美智子の仲がいいので、辰吉は正幸の目をいつも気にしている。美智子の父親にあまり気に入られると、正幸に叱られるのではないかと思っているのだ。正幸はそんなこと少しも心配していない。もっとも、美智子が辰吉に傾いていったら彼も平気ではいられないだろうが、そんなことはあり得ないと思っている。むしろ、辰吉が美智子の心をつかんだら、正幸は、お前たいしたもんだ! と、ほめてしまうかもしれない。彼は美智子を女性としても人間としても尊敬している。彼女は人柄もいいし、人間的な魅力もあった。彼はそのことをいちいち誰かに話して聞かせたりしなかったが、いつもそう思っていた。彼は美智子に対してもどちらかというと不愛想に接したが、思いっきり優しい時もあった。何よりも彼の優しさは美智子に届いていた。
大学とバンドの両方を手を抜かないでこなしているため、美智子も両親に劣らず忙しい。彼女は小さい令子と、もっと遊んでやらなければと思っているが、手が回らない。
もっとも、令子だって寂しいと感じる時間なんかほとんどない。ピアノのレッスン、水泳教室、両親の演奏旅行についていったり、いろいろな音楽家の家族とつき合ったりと、スケジュールが詰まっている。
令子は、その忙しさを想像するだけで、あまりに恐ろしくて、片づけられることはどんどん片づけてしまおうと、小学校の夏休みの宿題などははじめの5日間で終わらせてしまった。そして、残りの夏はほとんど音楽1色である。
令子にとって今日は久しぶりに訪れた休暇だった。何もやらなくていい時はかえってあれこれ考えてしまう。そんな時だ。わたしはいつもひとりぼっちなんだ、と寂しい気持ちになるのは。