ロコモーション

BEETLE
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7

 こんな時に、年の離れていない兄弟がいたらどんなに楽しいだろうと思うのだ。とりわけ彼女は弟がほしかった。彼女はもし弟がいたら、ということをよく想像した。外でどろんこになって遊び、しかられると何も言えなくなってしまう男の子。行儀悪くご飯を食べて、皿をひっくり返して困っている男の子。友だちと野球をするときは大きな声をはりあげているのに、女の子の前にでるとうつむいて何も言えない男の子。そんな男の子が自分の弟だったら、どんなに毎日が楽しくなるだろう。令子はそう思っていた。だから、剛がやってきた今日は、うれしくて仕方なかった。
 令子が興味深く剛を見ていると、彼は最初のうちは緊張でこちこちになっていたが、しばらくすると部屋にあるいろいろなものに興味を示した。
 剛は、白いグランドピアノが気に入ったみたいで、しげしげとピアノのよくみがかれた外面や脚をみた。
 「ピアノ、弾いてみる?」
 令子は慣れた様子でふたを上げ、練習曲をいくつか弾いた。ピアノを実際に弾いているのをはじめて見た剛には、令子の演奏は神業のようだった。音が美しく流れてくるのもよかったし、指が鍵盤の上を流れるように移動していくのもよかった。令子が真剣に楽譜を見つめている横顔もよかった。
 令子は弾き終わると、剛に向き直った。
 「あまり上手じゃなくて恥ずかしいわ」令子は謙遜ではなく、真面目に言っているのだった。「ミッちゃんはね、すごく上手。お母さんよりずっといいのよ。気持ちが温かくなるの。わたしにはそれがない。ミッちゃんにいつも注意されるの。レイちゃんのピアノは楽譜をなぞってるだけだって」
 剛はびっくりした。どこが上手じゃないのかまったくわからなかった。彼は感動して、ぼうっとしびれてしまっていたのだ。
 「とても上手だよ。とてもよかった」
 「ありがとう。そう言ってもらえてうれしいわ。」令子は剛の目をじっと見て話した。「それからね、タツキチさんもすごくピアノが上手なのよ」
 「タツキチさん?」
 「うん、ミッちゃんたちのバンドでサックスを吹いてるの。キーボードも弾いてるのよ。キーボードってね、ピアノに似ている楽器なの。タツキチさんはメンバーの中で1番ピアノがうまいから担当することになったんだって。これからくるわよ。話がとっても面白いの。タツキチさんがお兄さんだったらな。タツキチさん大好き」
 彼女はきれいでいきいきした瞳をずっと剛に向けたまま話した。剛はその視線に耐えられなくなって、立ってうしろに歩いた。令子が辰吉の話をうれしそうにするのも耐えられなかったのだ。白いテーブルの白いイスのうしろの壁ぎわに白いギターがギター掛けに収まっているのを見つけた。小さな本箱もあった。ギターの楽譜集がたくさん詰まっていた。ロネッツ。ビートルズ。サーチャーズ。リトル・エバ。ジャーン・アンド・ディーン。ビーチ・ボーイズ。カーペンターズ。剛はどれもわからなかった。
 令子は彼のすぐ横にきて、リトル・エバの楽譜をひきだした。腕が触れ合った。剛は令子のぬくもりを感じた。
 彼女は譜面台に楽譜を立て、イスを運んで白いギターを弾きはじめた。ロコモーションだった。コード進行のみの簡単な演奏をしながら、彼女はハミングを添えた。
 剛はいい曲だと思った。テンポが軽くてうきうきする。明るくて甘いけど、その内側にせつなさがこめられている。そんな感じが、彼の気持ちに何となく同調したのだった。
 「この曲、素敵でしょ。ミッちゃんはもっと上手に弾くよ。それにね、ミッちゃんが歌うととてもいいんだ。なんかね、勉強したり友だちと遊んだりするすべてのことがね、とても楽しくて、素晴らしいことのように思えてくるの。この世界が楽しいことでいっぱい詰まっているような気になるの」
 剛は彼女の言うことが何となくわかるような気がした。彼も今この曲を聞きながら、楽しい気分に体じゅうが満たされるような気がしたからだ。いやなことや暗いことを忘れることができたのだ。彼は毎日が重かった。できればこの曲を聞くことで、つらい毎日が楽しいものに変わってほしいと思った。
 彼の父、竹中久雄は仕事が嫌いで、しばらく続いたと思うと、そのうちにやめてしまい、家でごろごろしている。やらせると何でも上手なのだが、長続きしない。高校の時も勉強を少しするとすぐ成績が上がったのだが、結果をだすまで続けられなかった。彼の両親が甘かったのだ。高校生になれば自分の責任と言いながら、実のところ親が楽したかっただけで、放任した結果、甘えん坊のわがままな大人になってしまった。彼の妹、小暮知佳は、兄を反面教師にして、自分で何でもこなす働き者になった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 ロコモーション
◆ 執筆年 2003年7月27日