ロコモーション

BEETLE
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8

 知佳の夫は両親から家具屋を引き継ぎ、彼女自身も経営に携わり、夫にも能力を評価されている。海岸の町の中心地の店を大きく改装し、夫婦と子どもたちが住む家を、そこから少し離れた海岸の近くに建てた。裕福で、幸福で、自信を持っていて、いつも明るくていきいきとしている。知佳にとって心配の種は、兄とその妻、竹中芳江だった。
 芳江も頼りない。パートでスーパーに勤めているのだが、家で夫がごろごろしているのを見ると、自分だけ働くのが馬鹿らしくなり、すぐ休んでしまう。久雄が頼りないから、せめて自分だけはしっかりしなければと、芳江が考えてくれたらどんなに心強いだろう。知佳はいつもそんなことを思っては、歯がゆくなってしまう。
 すべて人は違っている。誰かが自分と違うからと言って怒っても無意味だ。知佳はそういうことをわかっているつもりだった。しかし、そういう態度で人と接するには限界がある。自分の利益に関わりだしてなお、こういう態度を保てたらそれは真実の聖者である。そんなふうに生きられる人などどこにもいやしない。彼女はそういうことを身にしみて理解した。
 久雄は生活が苦しくなるとすぐ知佳に援助を求めてきた。彼女は兄に意見しながらも最後は金をだしてやっていた。優しすぎるのである。そのうちに、芳江までも援助を求めてきた。彼女は金を渡しながら腹が立って仕方なかった。自分だったら、夫の兄弟に金を借りにいくことなどできないだろう。プライドがそれを許さない。それがいかに恥ずかしいことなのか、芳江自身は気づいていないようだった。なんという鈍い心だろう。知佳は無神経な人間は大嫌いだった。
 今回もずいぶん長く居座っている。いったいいつになったら、兄たちは自分の家に帰るのだろうか? 仕事から疲れて帰った時、調理用具をだしっぱなしにしたままキッチンでうたたねをしている芳江を見ると、思わず放りだしたくなる。知佳はいい加減、兄夫婦に嫌気がさしてきた。兄夫婦と強く言い合いをしていたら、たまたま剛に聞かれてしまったこともある。久雄はどんなにののしられても平気な顔である。妹は兄の言うことを聞くものだという考えがどこかにあって、甘えているのだ。
 芳江は、泣いて何も言わない。あとで、剛の口から、「お母さんがおばさんのこと、恐いって言ってた。おばさん、やさしいのにね」、などと聞こえてくる。それを聞いてますます知佳は腹が立つ。なんでわたしの方が悪者みたいに言われなければならないのか? 夫からも、お兄さんたちはいつまでいるつもりなんだ? と追及される。帰ってもらいたいと、それとなく伝えた方がいいんじゃないか? と知佳にいやな役を押しつけようとする。知佳が、自分なりには兄に話してみたけどききめがなかったから、あなたからも言ってもらいたい、と意見するが、夫は、そのうちと言うだけである。
 何を言っても、のれんに腕押しの兄夫婦、毅然とした態度を示すのが苦手な夫、それら両者の間にはさまって、知佳はだんだん疲れてきた。そう遠くないときに、何か決定的な争いが起こるだろうという気がしてきた。
 剛は、両親とおば夫婦の間に生じた対立の細かなことはわからなかったが、不穏な空気を敏感な肌で感じ取っていた。ただでさえ暗い家庭なのに、このところいっそう暗くなってきて、小さい彼の胸は押しつぶされそうだった。
 剛は、令子のギターを聞きながら、家の中のごたごたを忘れていた。ずっとこうしていたいと思った。
 「ヒロちゃんだったら、もっとうまいのにな」
 「ヒロちゃん?」
 「バンドでギターやってるの。ヒロちゃんもこれからやってくるよ。あと、メグちゃんもくる。ベースを弾いてるの。すごくきれいなのに、ほんわかしていて面白いの」
 その時、正幸と美智子が玄関のドアを音を立てて開け、買い物袋をいくつも持って帰ってきた。
 「ただいま」と美智子。
 「レイちゃんはギターを聞かせてたのか。ツヨシ、レイちゃん、うまいだろ?」
 剛は強くうなずいた。
 「そうだ。ツヨシをコグレさんちまで送っていかなくちゃならないけど、時間がないな」正幸は両手で剛の肩を包んで、彼の目を見た。「ツヨシ、お前、島にいきたいか? 海の中の道を通っていくんだぜ」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 ロコモーション
◆ 執筆年 2003年7月27日