ロコモーション

BEETLE
prev

20

 剛は驚いた。こんな声を聞いたことがなかったのだ。なんだかへそのあたりが熱くなるような気がした。
 その時、剛の耳もとに、ささやく声がした。
 「ツヨシ君」
 令子の声だった。令子は剛の腕をひっぱり、美智子のビニールシートからだした。
 新しいビニールシートに令子と剛がくるまり、令子は剛を抱きしめた。彼女はわけもわからずキスをした。剛は彼女がたまらなくいとおしくなった。ふたりはシートの中で、恵のあえぎ声を聞きながら、幼い体を強く抱きしめ合い、朝まで体を温めた。
 明るさを感じて令子は目を開けた。うしろめたい気持ちが神経を鋭敏にさせたのである。自分の腕の中に剛がいる。この状態でみんなが起きたら大変だ。彼女はそっと抜けだし、干してあった服を着た。夜の途中で雨がやんだらしく、風に吹かれてすっかり乾いていた。それから、剛をそっと、姉の美智子のシートの中に入れた。波は静かになり、美しい光景だった。
 夜には、松の木のかなり高いところにつくった簡易住宅の床に、あと20~30㎝で届いてしまうところまで水面がきていた。それが、島の地表より40~50㎝の深さのところまで、ひいていた。穏やかな波が朝日を受けて、キラキラ白く光っていた。島の地表が浅瀬の水底のようだった。
 明るくなってみると、かなり高いところで夜を過ごしたことがわかり、令子は少し驚いた。そこからは遠くまでよく見えた。見渡す限りの海がやさしく、涼しそうな顔をしていた。強めの風が時折吹いて、ほほに当たる感じがした。
 令子は自分のしてしまったことに対して、恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。男の子にキスするなんて。ずっと、ずっと先のことと思っていた。男の子と裸でくっつき合うなんて。想像したこともなかった。メグちゃんが変な声をだしていたから、わたしまで変な気持ちになっちゃったんだわ。ツヨシ君、わたしのこと変な子だと思ったろうな。もう遊びにきてくれることもないだろうな。
 令子は海が涼しすぎると思った。夜はあんなに怒っていたのに、今は激しさを隠して、すましている。わたしのしたことなんか何も知らないような顔をしている。わたしたちをもう少しで死なせようとしたのに、何ごともなかったようなやさしい顔をしている。令子はそういうことを論理的に考えたわけではない。それにはまだ小さすぎた。しかしそう感じたことは正確に記憶に残った。きっと彼女は大人になってこの記憶を正確に表現することができるだろう。しかし、その時にはこの日の海の表情はどこにも見つけられないのだ。
 大人はいつも子どもの記憶を探している。子どもはいつも大人の幻影に憧れる。そして、両者は永久に出会わない。
 大人になった令子は、もうこの日のことも、剛のこともすっかり忘れているだろう。でも、もしかしたら、昔子どものころにこんなことがあったんだと、親しい女友だちには話すかもしれない。剛とのことは言わないで、この夜の冒険談を物語るかもしれない。そして、その女友だちの弟に憧れられるかもしれない。あるいは、その女友だちの妹に慕われるかもしれない。
 令子は、今見ているこの光景と、今回のこの体験が、どんなに貴重なものであるか、その価値に気づいてはいない。ただ、不思議に思っていた。これほど大きな事態を乗り越えたのに、やはりいつもどおりの自分がいるのが不思議だった。
 ひとりふたりと起きはじめた。命が助かったことよりも、自分たちがビニールシートの中で丸裸でいることを意識して、慌てていた。
 令子はみんなに頼まれて下着と服を取った。彼女の背では届かなかったが、彼女は自分の服を取った時と同じようにロボの上に乗って手を伸ばした。
 夜の残りの食料で朝食を取り終わると、全員、松の木から降りた。すっかり水がひいていて、島の地表はところどころぬかっていて、荒れ果てた感じがした。
 「見ろよ、潮がみるみるうちにひいていくぞ」
 辰吉が、少し楽しそうな口調で、浜の方向を見ながら言った。浜からこの島までは、せいぜい500メートルほどの距離だった。その間をレンガの道が結んでいて、人も車も干潮の時は島に渡れるようになっている。台風の直撃を受けて、レンガの道のある海底も、島も、すっかり水没してしまっていたのに、朝を迎えたらもうレンガの道があらわれだした。
 「ちっきしょう! 台風の大バカヤロー」
 正幸は憎らしそうに叫ぶと、地面をしつこく蹴った。美智子が彼のそばに寄った。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 ロコモーション
◆ 執筆年 2003年7月27日