ロコモーション

BEETLE
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21

 「マサユキ」温かい声だった。
 「ミチコ」怒っているような声だった。「オレは悔しいよ。悔しくてたまんねえよ」
 「わかるけどさ、死ななくてよかったよ。それだけでも本当、よかったよ」
 彼女は両手でそっと正幸の腕をつかんだ。彼はその腕を勢いよく上に上げた。美智子には彼の悔しさがよくわかるつもりだった。あんなに大事にしていたものを海に持っていかれてしまったのだから。しかし、それにしても今日の正幸のいらだちは激しかった。ここまで激しい感情を、少なくとも表面上だす正幸を見ることは、彼女の記憶になかった。もちろん、その原因は明らかだ。ビートルとドラムセットを失ったことである。しかし、それだけではなかった。
 彼は上に上げた手の指で遠くをさした。
 「見ろよ、あれだよ」
 浜辺に近い泥の中に正幸のフォルクス・ワーゲン・ビートルが斜めになって埋まり、半分車体を見せていた。美智子もそれを見て声を失った。正幸が地面を蹴り続けるほど悔しがる気持ちがやっとわかった。失うことと失った結果を見せつけられることとはまったく違う。
 たとえば、ある大学の合格発表で不合格を確認するのと、その帰りの電車の向かいの席で合格した受験生がうれしそうに合格者用の書類を抱えているのを見るのとでは、悔しさの質に大きな違いがある。恋人が浮気したのを知るのと、その現場を目撃することでは、ショックを受ける度合いがまったく違う。健康上の理由で酒を飲んではいけなくなることを医者に通告されるのと、おいしそうに酒を飲んでいる人の前で禁酒するのとでは、切実さの点で大きな違いがある。
 正幸はビートルが波ではるか遠いところへ運ばれてしまったと思っていたのだ。美智子もそう思っていた。たぶん誰もがそう思っていただろう。というよりは、そう思いたい、そう思わないではいられない、という状況だった。母を亡くした小さい子どもに、お母さんはどこか遠くの国にいってしまったのだよというふうに納得させるように、おそらく、正幸も辰吉も、そして誰もがそう自分を納得させようとしていたのだ。ところが、実際にはすぐ目につくところに、ご丁寧に海は置いておいてくれた。失ったものの残骸を見せられるのはひどすぎた。
 「ひでーよ。持っていくんだったらよ、きれいさっぱり持っていけよ。なんで、汚らしくオレの目にさらすんだよ。台風のバカヤロ」
 美智子は、ビートルの手入れをいつも念入りにしている正幸の姿を思い浮かべて、思わず涙をこぼした。
 辰吉も恵もショックを受けた。
 「ひでえ」
 「ひどすぎるよ」
 正幸は今度はかなり離れたところを指さした。
 「見ろ!」
 辰吉のビートルが泥に埋まっていた。少し離れたところに、恵が父から借りてきた軽トラが埋まっていた。魚まつ、という字が泥に汚れていた。辰吉は声もでなかった。こういった種類の残酷さも、他人の身に起こったのを眺めるのと、自分の身に起こるのとでは、かなりの違いがある。
 辰吉が、たった今、潮がひく様子を楽しそうに言っていた元気は、すっかりなくなっていた。恵は泣きだした。宏美が近寄って慰めた。5人は肩を落としてしばらくたたずんでいた。何も知らないロボだけが、雨が上がったことを喜んで、島や干上がった海底を走り回り、数えきれないほどの足跡をつけていた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 ロコモーション
◆ 執筆年 2003年7月27日