ロコモーション

23
令子は辰吉の右腕にいきなり飛びつき、ぶら下がった。
「重い、重い。急にぶら下がるなよな」
令子はパッと飛びのき、剛と手をつないだ。
「もうタツキチさんにはくっつかないよ。これからはもう飛びついたりしない」
そう言って、令子は辰吉の目をじっと長い間見つめた。タツキチさんにはタツキチさんの大事なものがある。そういうものに無遠慮で触れても怒られないのは、小さな子どものうちだけなのだ。彼女は他人の心の中にはそういうものがあるということを知ったのだった。
辰吉は辰吉で、令子が自分のことをほかの誰かのものであると意識して、距離を置こうとしたことに、ある種の寂しさを感じた。
かけがえのないものを手に入れたり、失ったりする時や、かけがえのないものに気づいたり、見捨てられたりするときが、いつか必ず訪れる。しかも、それはしばしばいちどにやってくる。そして、人を大きく変えていく。場合によっては、人をのみこみ、はきだし、ぼろぼろに傷つける。
辰吉は今、自分でも予想しなかった虚無感を感じていた。実際、令子という小さな女の子の存在は、不思議なくらい彼の心を満たしていたのだ。
辰吉は、もともとロックやポップスになど少しも興味を持っていなかった。正幸にバンドに入らないかと誘われたときもまったく気乗りがしなかった。練習風景だけ見てみろよと言われて、ヤマハのスタジオにいった。そこに、姉のお供できていた令子がいた。もちろん彼にロリータ趣味はなかったが、彼は令子に強く心をひかれた。スタジオに入ったとたんに電気が走るような感触がするほどだった。それはエレキの音色と、ドラムの騒がしさと、厚みのある美智子のボーカルによるものかもしれなかった。その感触を、彼はロックの生演奏をはじめて聞くせいにしようとした。なぜなら、10歳くらいの女の子にひかれてバンドに参加したなんて、口がさけても言えるものではなかったから。それに、彼自身ですら、彼をバンド活動に駆り立てた本当の理由が令子にあるということを、意識的に思ったことはなかった。だから、それ以来彼は、自分がロックにのめりこんでいると思いこんでいた。
辰吉は自分たちのバンドがすべてを失ったと思った。しかし、それは必ずしもすべてが終わったことを意味しているわけではなかった。彼はバイトをして、そのうちにバンドを再開できるに違いないと思っていた。もちろん、気持ちは沈んでいたが、何しろリーダーの正幸がしっかりしているから、何があってもいつか復活できると確信していた。彼は仮にこのあと現実の厳しさを味わって絶望に追いやられても、正幸がもういちどやろうぜと言えば、ひと肌脱いでもいいと思っていたのである。ところがそんな残り火のような感情も、すっかり消えてしまったような気がしていた。令子が自分に距離を置いた。ただそれだけのことで、辰吉は自分の心の中が急に冷えてしまったように思った。たかが7歳の女の子である。しかし、現実にはそれが大きく辰吉に影響を及ぼしたのである。これと似たような影響を受けたことがあっても、おそらく人はそれを口にだすことはあるまい。もっと理由らしい理由を考えるだろう。
全員、歩いて美智子の家に着いた。美智子の両親は娘たちの身を案じて、休暇を取って家にいた。もちろん両親ははすごい剣幕で怒った。彼らは平謝りに謝った。
辰吉と恵と宏美は、美智子の父が駅まで送った。
剛は風呂に入らせてもらった。風呂から上がって、令子の古い下着と服を着て、廊下にでると、令子が階段の途中から、ツヨシ君と呼んだ。美智子と彼女の母と正幸は、ダイニングで事後処理について真剣に話し合っている。
彼が誘われるままに階段を昇ると、令子は彼を自分の部屋に入れた。
「ツヨシ君、また遊びにきてほしいな」
剛は大きくうなずいた。
「絶対に絶対にくるよ」
「きっとよ」
「うん、きっと」
「じゃあ、約束のキスよ」
令子は目を閉じてくちびるをつきだした。
剛は彼女の手を握って、くちびるをつきだすようにして、令子にキスをした。
剛は、令子に毎日会いたいと思った。令子と毎日会えば、嫌なことなどひとつもないに違いないと思った。むしろ、これから毎日のように会わないはずがないような気もした。というより会わないで、どうやってその日を過ごせるのだろうと思った。しかし、令子との出会いは彼にとって夏の蜃気楼のようなものだった。
美智子が階段を上がりながら、ツヨシ君と呼びかける。令子はドアを開けて、美智子に、なあに、お姉さん、と声をかける。
「ツヨシ君をコグレさんの家に送り届けようと思うんだけど、レイちゃんもいっしょにいく?」
「重い、重い。急にぶら下がるなよな」
令子はパッと飛びのき、剛と手をつないだ。
「もうタツキチさんにはくっつかないよ。これからはもう飛びついたりしない」
そう言って、令子は辰吉の目をじっと長い間見つめた。タツキチさんにはタツキチさんの大事なものがある。そういうものに無遠慮で触れても怒られないのは、小さな子どものうちだけなのだ。彼女は他人の心の中にはそういうものがあるということを知ったのだった。
辰吉は辰吉で、令子が自分のことをほかの誰かのものであると意識して、距離を置こうとしたことに、ある種の寂しさを感じた。
かけがえのないものを手に入れたり、失ったりする時や、かけがえのないものに気づいたり、見捨てられたりするときが、いつか必ず訪れる。しかも、それはしばしばいちどにやってくる。そして、人を大きく変えていく。場合によっては、人をのみこみ、はきだし、ぼろぼろに傷つける。
辰吉は今、自分でも予想しなかった虚無感を感じていた。実際、令子という小さな女の子の存在は、不思議なくらい彼の心を満たしていたのだ。
辰吉は、もともとロックやポップスになど少しも興味を持っていなかった。正幸にバンドに入らないかと誘われたときもまったく気乗りがしなかった。練習風景だけ見てみろよと言われて、ヤマハのスタジオにいった。そこに、姉のお供できていた令子がいた。もちろん彼にロリータ趣味はなかったが、彼は令子に強く心をひかれた。スタジオに入ったとたんに電気が走るような感触がするほどだった。それはエレキの音色と、ドラムの騒がしさと、厚みのある美智子のボーカルによるものかもしれなかった。その感触を、彼はロックの生演奏をはじめて聞くせいにしようとした。なぜなら、10歳くらいの女の子にひかれてバンドに参加したなんて、口がさけても言えるものではなかったから。それに、彼自身ですら、彼をバンド活動に駆り立てた本当の理由が令子にあるということを、意識的に思ったことはなかった。だから、それ以来彼は、自分がロックにのめりこんでいると思いこんでいた。
辰吉は自分たちのバンドがすべてを失ったと思った。しかし、それは必ずしもすべてが終わったことを意味しているわけではなかった。彼はバイトをして、そのうちにバンドを再開できるに違いないと思っていた。もちろん、気持ちは沈んでいたが、何しろリーダーの正幸がしっかりしているから、何があってもいつか復活できると確信していた。彼は仮にこのあと現実の厳しさを味わって絶望に追いやられても、正幸がもういちどやろうぜと言えば、ひと肌脱いでもいいと思っていたのである。ところがそんな残り火のような感情も、すっかり消えてしまったような気がしていた。令子が自分に距離を置いた。ただそれだけのことで、辰吉は自分の心の中が急に冷えてしまったように思った。たかが7歳の女の子である。しかし、現実にはそれが大きく辰吉に影響を及ぼしたのである。これと似たような影響を受けたことがあっても、おそらく人はそれを口にだすことはあるまい。もっと理由らしい理由を考えるだろう。
全員、歩いて美智子の家に着いた。美智子の両親は娘たちの身を案じて、休暇を取って家にいた。もちろん両親ははすごい剣幕で怒った。彼らは平謝りに謝った。
辰吉と恵と宏美は、美智子の父が駅まで送った。
剛は風呂に入らせてもらった。風呂から上がって、令子の古い下着と服を着て、廊下にでると、令子が階段の途中から、ツヨシ君と呼んだ。美智子と彼女の母と正幸は、ダイニングで事後処理について真剣に話し合っている。
彼が誘われるままに階段を昇ると、令子は彼を自分の部屋に入れた。
「ツヨシ君、また遊びにきてほしいな」
剛は大きくうなずいた。
「絶対に絶対にくるよ」
「きっとよ」
「うん、きっと」
「じゃあ、約束のキスよ」
令子は目を閉じてくちびるをつきだした。
剛は彼女の手を握って、くちびるをつきだすようにして、令子にキスをした。
剛は、令子に毎日会いたいと思った。令子と毎日会えば、嫌なことなどひとつもないに違いないと思った。むしろ、これから毎日のように会わないはずがないような気もした。というより会わないで、どうやってその日を過ごせるのだろうと思った。しかし、令子との出会いは彼にとって夏の蜃気楼のようなものだった。
美智子が階段を上がりながら、ツヨシ君と呼びかける。令子はドアを開けて、美智子に、なあに、お姉さん、と声をかける。
「ツヨシ君をコグレさんの家に送り届けようと思うんだけど、レイちゃんもいっしょにいく?」