ギンザ

麗しのサブリナ
prev

3

 また、彼の前方にお茶屋ののれんが見えてきた。彼は意を決して店のドアを開けて、中に入っていく。中に入って、彼はあ然とする。もう女の子の姿がない。彼はしかし何げないようすで狭い店内を歩き回り、カウンターに近づく。年配の女性の店員が彼を待ち構えている。彼はカウンターの前に並べられた木箱を眺める。
 「どのお茶にしますか?」店員にそう聞かれて、しばらく考えて彼は答える。
 「それと…それと…それと…、……、それを、お願いします」
 「100グラムずつでいいですか?」
 「はい」
 お茶を包んだ紙袋を抱えて、秀幸は店をでる。そして、自分はいったい何をやっているのか、情けないように思いながら、下宿まで歩いた。
 彼は本当は、年配の店員に伝言を頼もうと思ったのだ。映画のチケットも渡そうと思っていた。店内を歩き回っている時は、それがうまくいくような気がしていた。しかし、いざ店員と向き合ってみると、とてもそんなことができるはずがないと思った。しかしまた、お茶を指さしながら、やっぱり思いきって口にしてみようかと考えてもみた。ためらっている間、妙な間ができたらあやしまれると思って、彼は次々にお茶を注文した。ためらっている時間に比例して、注文するお茶の数量も増えていった。そうやって、彼が伝言をあきらめたころには、抱えるのが大変なほどの量を買うことになってしまったのだった。
 秀幸の部屋は狭かった。裸電球がひとつ、中央のちゃぶ台をてらてらと照らしていた。彼は、お茶の入った紙袋をその上にひとつひとつ並べた。彼はきゅうすを持っていなかった。このお茶を飲むことはないだろう。彼はそう思った。そして、小さな流しの下の引き出しにそれらをしまいこんだ。
 秀幸が昼間お茶屋の中に入ろうとしたほんの少し前、女の子は外出した。彼女が客への応対をすませると、お茶屋の店員が話しかけた。
 「アイちゃん、細井ゆきの公演を見てこないかい? 日比谷公会堂で今からはじまるのよ」
 こう話しかけたのは、早川伸子という店員だった。伸子は気さくで面倒見がよく、この店の中心的存在だった。アイちゃん――中野愛子は、歌手になることを夢見て東京にでてきた。そして銀座通りのお茶屋にアルバイトとして雇ってもらっている。そんな愛子を、伸子は自分の娘のように心配している。愛子も伸子を母のように慕い、何かと相談にのってもらっている。
 「おばちゃん、急にどうしたの? これからはじまる公演に、今から入れるわけないでしょう。しかも、今大はやりの細井ゆきの公演なんてなかなかチケットが手に入らないんだから」
 愛子は、客用の湯飲みを洗いながら言った。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 ギンザ
◆ 執筆年 2004年5月4日