ギンザ

麗しのサブリナ
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 「わたし、あそこの公会堂の支配人と知り合いなのよ。細井ゆきを見たいって言ってたでしょ。公演ってね、どんなに人気のあるものでも、当日は空席ができるものなんだって。こういう女の子がきたら案内してやってって、お願いしておいたのよ。早くいかないとはじまっちゃうから、急ぎなさい。ほら」
 売り物のきゅうすをあわただしくみがきながらそう言う伸子に、追いたてられるようにして、愛子は三角巾を脱ぎ、エプロンを取り、頭をさげた。
 「おばちゃん、ありがとう。お言葉に甘えちゃいます。本当にありがとうございます」
 「受付で、お茶屋の早川の紹介ですって言えばいいからね」
 手を忙しく動かしている伸子に、もういちど愛子はお礼を言った。
 愛子はうれしくて、急ぎ足で日比谷公会堂へ向かった。受付に告げると、感じのいい係員がホールの中へ彼女を案内した。とても丁寧に扱われて、そういうことに慣れていない彼女はくすぐったい気持ちになった。彼女が案内された席は、ステージの目の前だった。
 まもなく公演がはじまり、細井ゆきがでてきた。2、3歩前に進めば握手できる場所に、憧れの細井ゆきがいるのである。彼女は感激で胸が熱くなった。細井ゆきは、大胆な衣装で、力強く歌っている。アメリカン・ポップスを日本語で歌う歌が多かった。オリジナルの歌もジャズやロックに影響を受けたものだった。今までの歌手とは似ていなかった。愛子はこの歌手に憧れて東京にでてきたのである。

 すすけた明かりの小さなアパート
 わたしの夢見た都会の窓辺よ
 やりたいことなら自由にできるの
 おとうさんにぶたれることもないわ
 でもごめんなさい今に見ていてね
 夢をかなえたらきっと戻るから

 細井ゆきが急速なテンポでこの歌を歌いだすと、愛子の胸はさらに熱くなった。彼女ははじめてこの歌を聞いた時のことを思いだした。これが細井ゆきのデビュー曲であり、愛子が細井ゆきを知った曲でもあった。
 ロックのような急速なテンポにも愛子は新鮮な衝撃を受けたが、歌詞の内容の大胆さに、自分の生き方が揺さぶられるような気がした。彼女は、自分の家族が好きになれなかった。父は酒癖が悪かった。母は口うるさかった。彼女が歌手になりたいと言っても、もちろん、少しもとりあってくれなかった。女の子は家のことをやっていればいいと言うだけだった。彼女は両親にはむかうなんてとてもできないと思った。そう思っている時、ラジオでこの歌を聞いた。そうしたらいてもたってもいられなくなった。自分には歌手になる実力があると思いこんでいるだけによけいだった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 ギンザ
◆ 執筆年 2004年5月4日