ギンザ

5
彼女は本当に単純な女の子だった。東京にでればすぐに歌手になれると思っていたのだ。しかし、もちろん彼女は歌手になるためのきっかけさえつくることができない。ただのお茶屋のアルバイトにすぎない。しかも、お茶屋で面倒を見ている早川伸子が、彼女の実家と定期的に連絡をとっていることも知らない。今日、いきなり細井ゆきの公演に入れたのも、彼女の両親と早川伸子がしくんだことだということも知らない。「現実の厳しさがわかったらきっと帰ってくるだろう。今は何を言っても聞く耳を持たないだろうから、せめてそれまでは夢を見せておこう」と言って、父親が、貧しい家計の中から、特等席のチケットを買ったのだった。生来、人のいい愛子は、今度の幸運を、伸子の粋なはからいだと信じきっている。
愛子は、公演から戻り、自分がもうまもなく歌手になるような気分で、店の中に入った。それは、田村秀幸が飲みもしないのに、たくさんお茶を買って帰った、1、2時間あとだった。
店の中にはひとりの若い男の子がきていた。高橋良平という気取った男の子だった。放送局でアルバイトをしていて、ディレクターに頼まれてお茶を買いにきているんだ、と愛子をだましている。彼女が歌手志望だと知った良平が考えだした計略だった。芸能人の誰それを知っているよ、とか、そのうちアイちゃんをディレクターに紹介してやるよ、とか、調子のいいことばかり彼女に言って聞かせた。愛子のような単純な女の子は、良平が誠実ぶって、しかも、おだてながら話すと、すっかりそんな気になってしまう。
彼はそんなふうにして、いちど放送局見学と称して彼女を外へつれだしたことがある。肝心な時になると、ちょっと待って今ディレクターと相談してくるからと言って、トイレにしばらく隠れて、そのうちに、今は手があかないから、また次回にスタジオとかも見学させてくれることになったよ、とか言って、はぐらかしてしまう。気分を変えようなどと言い、銀座まで戻り、銀座の街を歩き回って、みゆき座でハリウッド映画を見て、その途中でいきなりキスをした。その日はそれで別れたが、彼女はどんどん良平に夢中になっていく。
そんなあぶなっかしい愛子のことがとても心配だが、伸子は話のわかるおばさんを演じているので、下手な口だしはできないでいる。お茶屋のもうひとりの店員、塚田トメは、人はいいのだが、無神経なので、思ったことを何でも口にだしてしまう。良平が懸命に愛子をくどいていると、トメは言った。
「あんた、放送局の小間使いがこんなところで油売っていて、ディレクターにどなられるんじゃないのかい?」
楽しそうに愛子と話していた良平は、トメの方を向くとやんちゃなようすで切り返した。
「トメちゃんそりゃないよ。いつもたくさんお茶を買ってるお得意に言うセリフじゃないじゃん。もっとお客を大事にしなきゃ」
「あたしゃ、お客を軽く見たことはないよ。ただ、あんたは何かたくらんでるみたいで、気になるのさ」
「もう、トメちゃんって心配性なのね。良平さんはそんな人じゃないってば」良平のいる手前、愛子も気のきいたことを言っておきたくて、そう言った。
「そうならいいけど」
そう、ぼそっと言うトメを良平は笑った。つられて愛子も笑った。
愛子は、公演から戻り、自分がもうまもなく歌手になるような気分で、店の中に入った。それは、田村秀幸が飲みもしないのに、たくさんお茶を買って帰った、1、2時間あとだった。
店の中にはひとりの若い男の子がきていた。高橋良平という気取った男の子だった。放送局でアルバイトをしていて、ディレクターに頼まれてお茶を買いにきているんだ、と愛子をだましている。彼女が歌手志望だと知った良平が考えだした計略だった。芸能人の誰それを知っているよ、とか、そのうちアイちゃんをディレクターに紹介してやるよ、とか、調子のいいことばかり彼女に言って聞かせた。愛子のような単純な女の子は、良平が誠実ぶって、しかも、おだてながら話すと、すっかりそんな気になってしまう。
彼はそんなふうにして、いちど放送局見学と称して彼女を外へつれだしたことがある。肝心な時になると、ちょっと待って今ディレクターと相談してくるからと言って、トイレにしばらく隠れて、そのうちに、今は手があかないから、また次回にスタジオとかも見学させてくれることになったよ、とか言って、はぐらかしてしまう。気分を変えようなどと言い、銀座まで戻り、銀座の街を歩き回って、みゆき座でハリウッド映画を見て、その途中でいきなりキスをした。その日はそれで別れたが、彼女はどんどん良平に夢中になっていく。
そんなあぶなっかしい愛子のことがとても心配だが、伸子は話のわかるおばさんを演じているので、下手な口だしはできないでいる。お茶屋のもうひとりの店員、塚田トメは、人はいいのだが、無神経なので、思ったことを何でも口にだしてしまう。良平が懸命に愛子をくどいていると、トメは言った。
「あんた、放送局の小間使いがこんなところで油売っていて、ディレクターにどなられるんじゃないのかい?」
楽しそうに愛子と話していた良平は、トメの方を向くとやんちゃなようすで切り返した。
「トメちゃんそりゃないよ。いつもたくさんお茶を買ってるお得意に言うセリフじゃないじゃん。もっとお客を大事にしなきゃ」
「あたしゃ、お客を軽く見たことはないよ。ただ、あんたは何かたくらんでるみたいで、気になるのさ」
「もう、トメちゃんって心配性なのね。良平さんはそんな人じゃないってば」良平のいる手前、愛子も気のきいたことを言っておきたくて、そう言った。
「そうならいいけど」
そう、ぼそっと言うトメを良平は笑った。つられて愛子も笑った。