ギンザ

麗しのサブリナ
prev

16

 「そんなはずはありませんわ。確かにアルバイトをしているんです」
 「そうですねえ、もしかしたら名簿にのらない場合もあるかもしれませんが、やはり名簿で確かめられる範囲でしか、お取り次ぎはできかねますので」
 「そうですか。それでは仕方ありません」愛子はすっかり元気をなくしてしまったが、その時、彼女の頭にある考えが浮かんだ。それは名案だと思った。しかし、それは良平のこととは関係のないことだった。自分が歌手になるための手段が今ここにあるのではないかと思ったのだ。そう思うと彼女は、さっき暗くなった自分のことはすっかり忘れて、思ったことを受付係に言ってみたくなった。
 「あの」
 「まだ何か?」
 「新人歌手を募集してませんか? わたし、歌には自信があるんです」
 真顔でそう言う愛子をしばらく見つめて、受付の女性はやさしくほほえんだ。
 「素敵なお考えですね。あなたなら、とてもきれいだから、受かるかもしれないわ。今、オーディションの参加者を募集しているから、だしてみたらいかがでしょうか? これが応募用紙です。写真をつくってから提出にきてください。郵送でもかまいません。幸運をお祈りしますわ」
 愛子は礼を言って、応募用紙を受け取り、放送局からでていった。
 愛子はお茶屋に戻りながら、良平に取り次いでもらえなかったことを残念に思った。本当にアルバイトとして登録されていないのだろうか? 彼女は不審に思った。それから、別の可能性も考えてみた。このあいだは良平につれられて何の気なしに建物に入ったから、別の放送局と思い違いしているのかもしれない。彼女はほかの放送局にもいってみようとして、しばらくその方角へ向かって歩いた。歩きながら、やっぱりさっきの建物に間違いないと直観した。そして、彼女は良平が登録されていない理由に気づいた。それはもっとも明快でありながら、彼女にとってもっとも不愉快な理由であった。良平の言葉は自分をだますためのうそだったのだ。そう思ってみると、良平の行動がよく理解できた。それはとても納得ができた。彼女はそれを確信した。そして悔しくなった。涙がでてきた。お茶屋に戻ろうと思ったが、足が向かなかった。伸子もトメも、自分が良平にだまされているのをわかっていたのだという気がした。そう思うと2度とふたりと顔を合わせたくないと思った。
 気がついたら愛子はみゆき座の前にきていた。彼女は、雪の降る夜に、ここで『麗しのサブリナ』を秀幸と見たんだと思った。急に秀幸のことが懐かしく思いだされた。彼は今、故郷でどうしているだろうか? 彼女は、秀幸を見送ってやればよかったと思った。あれほど切実なようすで、自分に見送りをしてほしいと頼んだ秀幸は、ぎりぎりまで有楽町駅のホームで待っていただろう。しかし、あの時は、良平に夢中だったから、とてもそんな気が起こらなかった。今なら……。今ならどうだろう? 今ならたぶん秀幸の見送りにいっただろう。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 ギンザ
◆ 執筆年 2004年5月4日