思われ-チェリー・ブラッサム・ピンク-

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遼子は大学に残って研究を続けた。研究が認められて助手になった。現在は准教授になり、他の大学に移った。はっきり言おう。彼女は私よりも優秀だ。そして勤勉だ。さらに決定的に私には欠けているもの、つまりひらめきを持っている。彼女は研究者としてじきに私を追い越すだろう。いや、もう私は追い越されているかもしれない。
彼女は私にとって神秘だ。ふと気付いたら私の近くに彼女がやってきていた。そして、いつのまにか私には彼女なしの生活を考えることができなくなっていた。彼女を知る前にも私は十分自立心を持って生きていたはずなのだが、今や彼女がいないことを全く考えることができない。不思議な存在は彼女だけではない。彼女との間に授かった(今のところ)一人息子の璃鴎も不思議な存在だ。彼が存在する前は、私と彼女の二人で十分だったはずなのに、彼がやってきてからは、彼の存在抜きに、自分自身の生活を考えることはできない。
それだけではない。彼は本当に、非常に不思議なのだ。何がどう不思議なのかはとても説明することができないのだが、普通の子供たちとは違うなと感じさせる何かが確かにあるのだ。子供たちに限らず、人間一般の中に置いてみても、何か違和感を感じさせるものがあるようなのだ。親の欲目で自分の子は特別だと思ってしまうのかもしれない。しかし、どうもそれだけではなさそうなのだ。
実は遼子にも不思議な傾向がある。妻のそういう傾向が璃鴎に至って増幅したのではないかと私は推測しているのだが、こればかりは説明してもわかってもらえないし、また、説明すればするほど親馬鹿ぶりが強調されていくだけなのを今まで何度か味わったので、この辺でやめておきたい。
ところで璃鴎という名だが、これはなかなか人様には読めないようだ。二文字の漢字のどちらもが日常生活でめったに使用することのないものだから、当然といえば当然だろう。「リオ」と読ませる。しかし、実際いろいろな呼ばれ方をするものだ。「リオウ」「リョウ」などと呼ばれるのは慣れっこだが、先日市立図書館の職員に「ハグレカモメ君」ですかと訊かれた時は驚いた。この変わった名前は私が命名した。ロックやポップスが大好きな私は、デュランデュランの「RIO」という曲名を自分の息子に付けた。妻は初めは賛成しなかったが、しばらくしてから私がこの漢字を探し出して書いて見せると、「けっこうかっこいいかも。」と言って、賛成した。今はすっかり気に入っているようだ。もっとも本人が気に入っているかどうかはわからない。ロックの曲名を付けたことは言っていない。一生言わないことにしようと、妻と申し合わせている。こういう人間になってほしいという親の思いをこめて付けた名ではないから、かえって秘密にしておく方が、思いをめぐらして自分の名に意味づけをするかもしれなくていいだろうと思っている。
妻は息子のことをいろいろなバリエーションで呼ぶ。「リオ」「リオクン」「リョー」「リョークン」「リョーチャン」「リオボー」「リオポン」「リオチン」「リオッペ」……。挙げたらきりがない。彼はどう呼ばれても、落ち着き払って、「はい、お母さん。」と答えるだけだ。
遼子は私のことをも多種多彩な呼び名で呼ぶ。「ヨシヒコ」「ヨシヒコサン」「アナタ」「パパ」「オトーサン」「ヨシクン」「ヨシポン」「ヨッチャン」「ヨッシー」「ヨシッコ」……。このうちの多くのものは私を閉口させるが、特に「ヨシッコ」は、私をして彼女に抗議せしめたところの唯一のものである。それだけは言わないでくれと懇願しても、彼女はまったく意に介していないようだ。
ドアチャイムが鳴ったので出ようかと思っていると止んでしまった。遼子が出たらしい。私はまたコーヒーカップを手にした。
私は遼子を大抵「リョーコ」と呼ぶ。結婚したての頃は「リョーコクン」が主流だった。そのうちに「リョーチャン」、「リョー」というのもでてきたが、璃鴎ができてからはまぎらわしいのでやめた。今は、呼び捨ては二人きりの時、「ママ」や「お母さん」は璃鴎のいる時と、使い分けている。
璃鴎は変わった子で、私のことは「お父さん」、遼子のことは「お母さん」としか呼ばない。彼が、「パパ」、「ママ」、あるいは、「父ちゃん」、「母ちゃん」、ましてや、「くそじじい」、「くそばばあ」などと別の呼び方をしたことはついぞ聞いたことがない。
彼女は私にとって神秘だ。ふと気付いたら私の近くに彼女がやってきていた。そして、いつのまにか私には彼女なしの生活を考えることができなくなっていた。彼女を知る前にも私は十分自立心を持って生きていたはずなのだが、今や彼女がいないことを全く考えることができない。不思議な存在は彼女だけではない。彼女との間に授かった(今のところ)一人息子の璃鴎も不思議な存在だ。彼が存在する前は、私と彼女の二人で十分だったはずなのに、彼がやってきてからは、彼の存在抜きに、自分自身の生活を考えることはできない。
それだけではない。彼は本当に、非常に不思議なのだ。何がどう不思議なのかはとても説明することができないのだが、普通の子供たちとは違うなと感じさせる何かが確かにあるのだ。子供たちに限らず、人間一般の中に置いてみても、何か違和感を感じさせるものがあるようなのだ。親の欲目で自分の子は特別だと思ってしまうのかもしれない。しかし、どうもそれだけではなさそうなのだ。
実は遼子にも不思議な傾向がある。妻のそういう傾向が璃鴎に至って増幅したのではないかと私は推測しているのだが、こればかりは説明してもわかってもらえないし、また、説明すればするほど親馬鹿ぶりが強調されていくだけなのを今まで何度か味わったので、この辺でやめておきたい。
ところで璃鴎という名だが、これはなかなか人様には読めないようだ。二文字の漢字のどちらもが日常生活でめったに使用することのないものだから、当然といえば当然だろう。「リオ」と読ませる。しかし、実際いろいろな呼ばれ方をするものだ。「リオウ」「リョウ」などと呼ばれるのは慣れっこだが、先日市立図書館の職員に「ハグレカモメ君」ですかと訊かれた時は驚いた。この変わった名前は私が命名した。ロックやポップスが大好きな私は、デュランデュランの「RIO」という曲名を自分の息子に付けた。妻は初めは賛成しなかったが、しばらくしてから私がこの漢字を探し出して書いて見せると、「けっこうかっこいいかも。」と言って、賛成した。今はすっかり気に入っているようだ。もっとも本人が気に入っているかどうかはわからない。ロックの曲名を付けたことは言っていない。一生言わないことにしようと、妻と申し合わせている。こういう人間になってほしいという親の思いをこめて付けた名ではないから、かえって秘密にしておく方が、思いをめぐらして自分の名に意味づけをするかもしれなくていいだろうと思っている。
妻は息子のことをいろいろなバリエーションで呼ぶ。「リオ」「リオクン」「リョー」「リョークン」「リョーチャン」「リオボー」「リオポン」「リオチン」「リオッペ」……。挙げたらきりがない。彼はどう呼ばれても、落ち着き払って、「はい、お母さん。」と答えるだけだ。
遼子は私のことをも多種多彩な呼び名で呼ぶ。「ヨシヒコ」「ヨシヒコサン」「アナタ」「パパ」「オトーサン」「ヨシクン」「ヨシポン」「ヨッチャン」「ヨッシー」「ヨシッコ」……。このうちの多くのものは私を閉口させるが、特に「ヨシッコ」は、私をして彼女に抗議せしめたところの唯一のものである。それだけは言わないでくれと懇願しても、彼女はまったく意に介していないようだ。
ドアチャイムが鳴ったので出ようかと思っていると止んでしまった。遼子が出たらしい。私はまたコーヒーカップを手にした。
私は遼子を大抵「リョーコ」と呼ぶ。結婚したての頃は「リョーコクン」が主流だった。そのうちに「リョーチャン」、「リョー」というのもでてきたが、璃鴎ができてからはまぎらわしいのでやめた。今は、呼び捨ては二人きりの時、「ママ」や「お母さん」は璃鴎のいる時と、使い分けている。
璃鴎は変わった子で、私のことは「お父さん」、遼子のことは「お母さん」としか呼ばない。彼が、「パパ」、「ママ」、あるいは、「父ちゃん」、「母ちゃん」、ましてや、「くそじじい」、「くそばばあ」などと別の呼び方をしたことはついぞ聞いたことがない。