思われ-チェリー・ブラッサム・ピンク-

13
そんなある日、門倉が私の部屋のドアをノックした。私が開けると、彼は死にそうな顔で言った。
「湯本、お前、体温計、持ってないか?」
「持ってるけど、どうしたんだ?」
「風邪ひいたみたいなんだよ。」
私はすぐに体温計を貸してやった。そして、それはいつまでたっても私の元へ返ってこなかった。別にないと困るものでもないからそのままにしておいたが、とうとう私も風邪をひいて起き上がれなくなってしまい、ある夜、門倉の部屋の前まで這って行った。ノックをしている時に、風邪で朦朧となった私の頭の中を、女の高いうめき声が通り抜けていくのが、かすかに聞こえてきたような気がした。ずいぶんと長い時間待たされた後、門倉がドアを開けて、顔だけ出した。しかめっつらをしていた。シャツが裏返っていた。
「何だよ?」
「風邪ひいたみたいなんだよ。この間貸した体温計、返してくれないか。」
門倉は、悪いけど明日にしてくれと言って、ドアを閉めてしまった。ドアが閉まる時に、女の赤いハイヒールに気付き、やっと私も事情を察した。翌日門倉が私に会った時、いきなり、「あの女は、いいよ。たまんねぇぜ。」と、猫のように舌を出して言った。彼は問わず語りに生々しい話をした。私はそのぐらいのことは驚くに値しないとでも言わんばかりに、平気を装って相手をしていたが、内心は相当動揺していた。あの美しく頭のよい翔子を門倉が自由にしている姿が頭に浮かんできてしまい、それが私には耐え難くて、早く話を切り上げたかった。ところが、門倉は照れ隠しなのか、とりつくろいたいのか、よくわからなかったが、始終上ずった声で話し続けていて、それが一向に止みそうになかった。私は適当なところで切り上げて、自分の部屋に戻った。肝心の体温計のことはそれきり忘れてしまっていた。
私は、門倉から返してもらった古びた体温計から、二十年近く前のことをあれこれと思い出していた。そうこうするうちにかなりの時間が経過したらしい。時計の長針の音をずいぶん聞いた気がする。つぶっていた眼を開ける。何も見えない。妻の静かな寝息が聞こえる。どうしたんだろう? 目が冴えて眠れない。何かが気になっているのかもしれない。翔子のことだろうか? それは間違いない。でも、それだけではないような気がする。私は一体それが何だったのか気になって、ますます記憶の糸をたどることに熱中していった。
それは、門倉が彼女との恋に夢中になり始めてから少なくとも半年程経った、ある空の澄んだ午後の出来事だった。私は、その日最後の講義を終えて、一人きりで図書館に行った。その頃はもちろん、以前のように4人で図書館で勉強をする習慣などとっくになくなっていた。しばらく下宿の部屋で一人で勉強していた私は、ある時、何かの講義に必要な本を探しに、久しぶりに大学の図書館に立ち寄った。それがきっかけとなって、私は以前のように図書館で勉強するスタイルを取り戻した。
そんなある日のことだった。図書館のいつもの席で勉強していると、湖山翔子が声を掛けてきた。久しぶりに間近に見る彼女は、前よりも大人っぽく、そして美しくなっていた。彼女は私に明るい声で、しかも親しげに話し掛けてきた。それは、私にはとても意外に思えた。
「湯本君じゃない。久しぶりね。」
「あ、湖山さん、久しぶりだね。一人? 門倉は?」
「門倉君と別れちゃった。」
「湯本、お前、体温計、持ってないか?」
「持ってるけど、どうしたんだ?」
「風邪ひいたみたいなんだよ。」
私はすぐに体温計を貸してやった。そして、それはいつまでたっても私の元へ返ってこなかった。別にないと困るものでもないからそのままにしておいたが、とうとう私も風邪をひいて起き上がれなくなってしまい、ある夜、門倉の部屋の前まで這って行った。ノックをしている時に、風邪で朦朧となった私の頭の中を、女の高いうめき声が通り抜けていくのが、かすかに聞こえてきたような気がした。ずいぶんと長い時間待たされた後、門倉がドアを開けて、顔だけ出した。しかめっつらをしていた。シャツが裏返っていた。
「何だよ?」
「風邪ひいたみたいなんだよ。この間貸した体温計、返してくれないか。」
門倉は、悪いけど明日にしてくれと言って、ドアを閉めてしまった。ドアが閉まる時に、女の赤いハイヒールに気付き、やっと私も事情を察した。翌日門倉が私に会った時、いきなり、「あの女は、いいよ。たまんねぇぜ。」と、猫のように舌を出して言った。彼は問わず語りに生々しい話をした。私はそのぐらいのことは驚くに値しないとでも言わんばかりに、平気を装って相手をしていたが、内心は相当動揺していた。あの美しく頭のよい翔子を門倉が自由にしている姿が頭に浮かんできてしまい、それが私には耐え難くて、早く話を切り上げたかった。ところが、門倉は照れ隠しなのか、とりつくろいたいのか、よくわからなかったが、始終上ずった声で話し続けていて、それが一向に止みそうになかった。私は適当なところで切り上げて、自分の部屋に戻った。肝心の体温計のことはそれきり忘れてしまっていた。
私は、門倉から返してもらった古びた体温計から、二十年近く前のことをあれこれと思い出していた。そうこうするうちにかなりの時間が経過したらしい。時計の長針の音をずいぶん聞いた気がする。つぶっていた眼を開ける。何も見えない。妻の静かな寝息が聞こえる。どうしたんだろう? 目が冴えて眠れない。何かが気になっているのかもしれない。翔子のことだろうか? それは間違いない。でも、それだけではないような気がする。私は一体それが何だったのか気になって、ますます記憶の糸をたどることに熱中していった。
それは、門倉が彼女との恋に夢中になり始めてから少なくとも半年程経った、ある空の澄んだ午後の出来事だった。私は、その日最後の講義を終えて、一人きりで図書館に行った。その頃はもちろん、以前のように4人で図書館で勉強をする習慣などとっくになくなっていた。しばらく下宿の部屋で一人で勉強していた私は、ある時、何かの講義に必要な本を探しに、久しぶりに大学の図書館に立ち寄った。それがきっかけとなって、私は以前のように図書館で勉強するスタイルを取り戻した。
そんなある日のことだった。図書館のいつもの席で勉強していると、湖山翔子が声を掛けてきた。久しぶりに間近に見る彼女は、前よりも大人っぽく、そして美しくなっていた。彼女は私に明るい声で、しかも親しげに話し掛けてきた。それは、私にはとても意外に思えた。
「湯本君じゃない。久しぶりね。」
「あ、湖山さん、久しぶりだね。一人? 門倉は?」
「門倉君と別れちゃった。」